book | ナノ
滲む魔物
茹る、という言葉が死んでからどれくらいが経つのだろう。
それが形骸化された夏であっても、暦が「夏」になればじんわりと伝う汗は絶え間ないし、湿度はいつだって皮膚に不愉快な迄に張り付いている。けれどそれは全てまやかしだ。いくら暑いと言っても『茹るような暑さ』だとは思わないし、『熱中症で人が死ぬ』なんてもはや都市伝説みたいなものだ。なのに未だ現国の教科書にそれらは鎮座しているし、私は茹る、という漢字が何故草冠なのかだって納得がいかない。調べてもいないので、成り立ちがどうであるかなどに興味は無い。
とどのつまり。私は夏休みに自分だけが避暑地では無く実家に残され、ひたすら机に向かっている事実がただひたすらに気に食わないのであった。
「ほら、手が止まってるぞ受験生」
「私には名前って名前があるんです。受験生なんて名前じゃないもん」
「屁理屈をこねる元気があるならまだやれるな。後1時間は頑張れ名前サン」
私が机に座っている間、涼しい顔をして隣で本を読んでいるこの男。受験生である私にとどめを刺そうと両親が連れてきた家庭教師もとい狡噛さんは、私に後1時間と曰い手元の本へと視線を戻した。
いまどき紙の本を読む人なんて珍しい。本人にそう告げたのは彼が家庭教師になって2日目だったが、本人は心底興味無さそうに「そんなことより手を動かせ」と言うだけだった。
彼が言う通り私は世にも珍しい受験生だ。昨今、殆どの子供が小学校から高校を卒業するまで一貫義務教育であるにも関わらず、子に夢を見過ぎた両親のお陰で私は現在の学校よりも随分と偏差値の高い高校への中途受験を余儀なくされた。そんな両親の期待に反して、残念ながら娘はそこまで賢くは無い。そこで彼らが自分達の夢を叶える為、藁にもすがる気持ちで雇ったのが、今ここで優雅に本を読む狡噛さんだったと言うわけだ。
早いもので彼がここに来てもうすぐ2ヶ月が経つが、彼は本当に勤勉かつ優秀で、彼らはその青年に大層な信頼を寄せていた。自分たちだけ旅行に行き、家に年頃の娘と若い男性を残らせる程度には。
けれど、確かに両親がそう思うのも無理は無い、のかも知らない。
実際に私の成績は彼が来てから着実に上がっていたし、自室で二人っきりになり勉強をしていても、間違いが起こるどころか雑談にも彼が応じることは殆ど無かった。それこそ、嫌われているのではと邪推するぐらいだった。なので狡噛さんの声を聞くのは、常識的な挨拶の範囲と、問題文を読む時。そして解説をする時が大半を占めていた。
当然と言えば当然なのだろうが、狡噛さんは家庭教師の名に相応しい博識っぷりだったし、聞けばあの名門・日東学院の社会学部だそうなので、私とは頭の作りが違うらしい。私がどれだけ頭を悩ませたって太刀打ち出来ないそれらを、まるで答えの見えているパズルを解いていくように、迷うことなく紐解いていく様は何処か異様にも感じられる程だった。
「こーがみさん、ここが分からない」
「ん?どこ?」
さて、私の集中力が切れた頃。
私は時々こうやって狡噛さんに教えを乞い、上手い具合に休憩をとる。それは本当に分からない時だったり、もうどうしようもなく勉強と向き合いたくない時だったり、彼の読書の邪魔をしたい時だったりと程度は様々だったが、狡噛さんはそれらの理由に口を出したことは無かった。私が「分からない」と言えば、狡噛さんはその言葉だけは魔法のように聞き入ってくれるので、いつからだったか私はそのチャンスを探すようになっていた。
ここ、と言ってもう一度問題を指差すと、狡噛さんは「あぁ、この問題は俺も昔悩まされたよ」なんて信じられないことを言ってから解説を始めた。いつもはそんな、彼にとって"余計"とも取れることは言わないのが私達の普通だからである。本当は、これは少しだけ確信めいた予感だった。なんだか今日の狡噛さんは、いつもと少しだけ雰囲気が違う。玄関から上がって靴を脱ぐ時も、私の部屋に入る時も。何がと説明はできない小さな違和感と、彼が薄らと上げた口角に、私はどぎまぎとしながら「こーがみさんでも分からないことあるんだ」なんてつまらない相槌を打つのが精一杯だった。けれど私の返事なんて大した問題では無かったようで、それに返答は無かった。ただ静かに、淀みなく紡がれてゆく数式と真っ白だったノートにインクが滲んでゆく様が、それを生み出してゆく狡噛さんの指先がやけに目に入って、私は自分の定まらない視線にいたたまれない気持ちになった。
「爪。短くて、まぁるいね」
どうしてそんなことを口走ってしまったかなんて、自分でも分からない。だって自分で声を出したのに、私はその声に誰よりも驚いていたからだ。
ぴたりと書くのを止めた指先から辿るように顔を上げると、狡噛さんと温度の無い視線が交わって、私は無意識に生唾を飲み込んだ。怒っているのか・はたまた呆れているのか。彼の瞳からは何も感じ取ることが出来ず、"分からない"という不安が募り、背中に伝う汗が気持ち悪かった。確かに視線は合っているの筈なのに、彼は私のことなんてちっとも視界に入っていないようだ。ただ私の喉はその間にもじわじわと焼けて、干からびた砂漠に雨が降るのを祈るみたいに、じっと彼の言葉を待っていた。
「だって君には出来ないだろ?」
不意に落ちてきたそれは、私への"解"らしかった。
どこか明後日な答えに、私はその言葉の意味を先ほどの数式のように探し当てようとした。すると彼の丸い爪が、まるでそれを阻止するように私の手の甲を柔くひっかくものだから、私は慌ててもう一度狡噛さんに視線を向ける。すると先ほどまでとは別人のような、いつの間にか熱を帯びた視線に捕まって、瞳を離すことが出来なかった。だから私はそこで初めて悟ったのだ。その言葉の意味は、きっと数式よりも単純で、明白で、滑稽なものなのだろう。これから私は言葉の砂漠で、息も出来ずに死んでいくのだ、と。
空調の効いた自室、管理された『夏』の中。
じんわりと伝う汗は不愉快で、湿度は皮膚に張り付いていた。
確かに今、私は茹るような夏の元で、それに食われるのを待っていた。
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