book | ナノ
無垢の檻 3
あれからというもの、東の国の気質にも慣れたおかげか名前の仕事は少しずつ軌道に乗り始めていた。それは名前が東の国へ来て一ヶ月と半月が経とうとする頃だった。その頃には季節もすっかり春の陽気が息を潜め、木々は青々と生い茂り、日中は出歩くとうっすらと汗が滲むようになっていた。
久しぶりに仕事の予定が入らなかったその日。名前は鼻歌を歌いながら、身支度を整えていた。仕事の時とは違う、ふんわりとしたワンピースに身を包み、髪をハーフアップにして緩く編み込む。夏を思わせるオレンジ色のチークが髪の色に良く映えていた。他人が見たら誰もがデートだろうと考える出で立ちだったが、今日彼女は誰とも約束していない。白いオープントゥのパンプスに履き替えると、昼に差し掛かるよりも早く、名前は雨の街から少し離れた場所にあるマーケットへ向かった。
「わぁ、ここが噂の…!」
名前は小声で、しかし昂る気持ちを抑えきれずに呟いた。到着したマーケットは、往来での会話が禁止されている東の国にも関わらず、どこからか人々の会話が聞こえる程に活気で溢れていた。それはこのマーケットが国中の食材が揃うことで有名な場所というのが一番の理由だったが、家庭で使うような一般向けの食材というよりは、料理人や名前のような専門業者が愛用する少し変わったスパイス等が多いのがこのマーケットの特徴である。その為、いかにも仕事という風体の男性が多く、可愛らしい服装の彼女は明らかにその場所から浮いていた。では、オフである彼女がどうしてこんな場所まで赴いたのか。それはもとより名前は趣味が功じて職業に結びついたタイプで、中でもスパイスには人一倍の拘りがあるからだった。貴重なものや少し癖の強いスパイスはなかなか流通させる商材としては難しいが、それが個人的な収集であれば関係ない。なので休日にそういった店を回り自分の好みのスパイスを探すのが、名前の出張先での楽しみの一つだった。
「ごめんください」
人通りをかき分けて彼女がまっすぐに向かったのは、深く落ち着いた翡翠色の外観が印象的な、こじんまりとした店だった。丁寧に挨拶をしながら扉を開けると、木枯らしのような音色のベルが控えめに響いた。全体的にウォールナット調で統一された店内は、外の喧騒とはきっちりと線引きされたように静かで、名前がもう一度「ごめんください」と口にすると、奥から現れた初老の店主は「いらっしゃい」よりも先に「見ない顔だね」と口にした。
「グリーンフラワーのスパイスがこちらにあると聞いて」
「あんた、よその国から来たのかい?」
「はい。中央の国から来ました」
「ふぅん、中央ねぇ。こんな店、一般のお客さんには縁が無いだろう」
「いえ、そんなことは…」
淡々とした、そこはかとなく品定めをされているような、少々息苦しい会話に名前は心の中で苦笑しながら店主の質問に答えていった。そうして、丁度名前と店主の会話に沈黙が訪れた時。カラン、と先ほどと同じように店のベルが来客を告げた。店主も名前も自然と扉に目をやると、入ってきたのは思いもよらない人物だった。
「今日予約していたものを取りに来たんだが...って。あんた、こんなところまで営業?」
「店主さん!こんにちは。雨の街の外で会うなんて、奇遇ですね」
そう言って名前に声を掛けたのは、東の国で唯一の知り合いと言っていい、すっかり顔馴染みとなった料理店の店主だった。すると先ほどまで訝し気だったスパイス店の店主は、幾分軽い口調で名前では無く後から来た店主に「ちょっと待ってな」と声を掛けて店の奥へと戻っていった。
「あんたの方が先客だったのに、すまないな」
「私はまだ何を買うかも迷っていて。気にしないでください」
「まぁでも。ここの店主、少し気難しいだろ?」
「あ、はは…実は、タイミングが最高でした」
ひそひそと二人が話していると、予約分のスパイスを纏めたのであろう大き目の袋を持って、初老の店主が戻ってきた。それを確認するなり二人ともぴたっと会話を止めたのが名前は少し面白く、学生時代に教師の目を盗んだお喋りを思い出す。料理店の店主が会計を終える頃には、名前の緊張はすっかりと解れていた。
「待たせて悪かったなお嬢さん。あんたターナーさんの知り合いってことは料理人か?」
「いえ、料理人では無くてですね…わたくし、中央の国のグリンダ商会所属、買い付け担当をしております名前・苗字と申します」
「へぇ、こんな若いお嬢さんが仕事を?」
「…はい。でも今日は休日なので個人的に伺いました。こちらのお店は東の国特有のスパイスが多いと噂を聞いていたんですが、想像以上に種類も豊富だし見たことないスパイスが多くて、わくわくしちゃいました。よろしければ是非一度、商会としてお話を伺いたいです!」
「…まぁそんなに言うなら、少しで良ければ時間作るよ」
「本当ですか!とっても嬉しいです!お日にち何時ならご都合つきますか?」
そういって嬉々として話す彼女に押され、先ほどまで値踏みするような視線でいたスパイス店の店主は気が付けば名前の人懐っこい積極さに随分とたじろいでいた。それを横目に青髪の料理人は『東の男は中央の女の子に敵わない』と苦笑いするより他なかった。
「…あの、なんだかすみません」
先ほどまでの勢いはどこへ飛んでいったのか。おずおずと名前が口を開いたのは、広々としたテラス席でミントティーに口をつけた後だった。向かい側に座っているのは、先ほど店で出くわした顔馴染みの店主である。名前の言葉の真意を知ってか知らずか、店主は「何が?」としらばっくれて穏やかに笑った。
「ご馳走になっちゃって、その」
「あー、いいって。これはさっき手間とらせたお詫び。丁度休憩したかったんだけど、こんな洒落たカフェに男一人じゃ気が引けるから。むしろ付き合ってくれてありがとな」
「店主さんがそう仰るなら、有難く頂きます…」
名前はそんな風に言われたら断るのも忍びないと納得することにしたが、店主さんは女の人の扱いに長けていそうな狡さを持っているなぁと考えて、自分の心にじんわりとした苦味が広がることに少し驚いた。それからすぐに何かの勘違いだと蓋をして、誤魔化すようにストローを口へ運ぶ。顔が妙に火照るのはきっと日差しのせいだろう。
「やっぱ、仕事の時はちょっと違うな」
「へ?」
「いや、さっきの店でのあんた。流石色んな国で仕事してるだけあるよ」
「そうですか?まぁ、やっぱり商会の名前を出すとなると、気は張りますね」
「あの店主があんなにたじたじなのも初めて見た」
「はは、それはまぁ、経験則ですよ。東の国で仕事の話をするのにも少し慣れてきましたし」
仕事をしているところを知り合いに見られるというのは、こんなに気恥ずかしいものなのか。名前はよく考えると今までこういったシチュエーションは無かったと記憶の中を探る。料理店の店主さんと仕事に関係の無い知り合いだというのもなんだか妙な話で、今まで他の国で都度の知り合いを作るのには事欠かなかったが、それも仕事と全く無縁という訳ではなかった。名前はどうしてだか、この人とはこのまま仕事の関わりは持ちたく無いと思って、自分でそのことを突き詰める前に話題を変えることにした。
「私は色んな事情を抱えた人と、お料理しながらそつなくお話できる店主さんの方が凄いと思いますけどね」
「俺のは適当っていうんだよ、買い被りすぎ」
「それを言ったら私だって。そんな褒められたものじゃないです。ただでさえ、女ですし、」
「あー、まあ…そういう苦労はあるよな」
あっ、と思った時には遅かった。そんなこと言うつもりは毛頭無かったのに、思わず投げやりな言葉が出てしまったと名前が口を抑えると、店主は少し迷ったように視線を逸らしてから、言葉を選ぶようにそう告げた。
「あ、その、投げやりなことを言いたかった訳じゃなくて」
「あんたを良く知らない俺でも、そういうことじゃないってのは分かるよ。俺で良ければ話ぐらい聞くけど」
まるで甘やかすように促されて、名前は店主の見透かすような視線が気恥ずかしく、合っていた視線を逸らしてから、たどたどしく言葉を選び出す。
「なんというか、その、今日も私が男の人だったら、あんな風に品定めされることも無かったですよね」
「…ん、そうだな」
「女性であることは仕事をする上で、ハンデでしか無くて。それは気質もあるんでしょうが、やっぱり少しだけ、ほんの少しだけ心細い時があって。そういう時に、考えたんです。世界を生きることの息苦しさは、彼らも同じじゃないだろうかって」
「それって魔法使いのこと?」
「...はい。私なんかとは比べ物にならないとは思うんですけど。けれど世界は、多数に生きやすいように出来てるじゃないですか。だから色んな事情の人が居て、自分はその中の小さな小さな一つで、この心細さは自分だけじゃないって、そう思ったら少しだけ強くなれる。そんな気がしています」
そこまで話してから、名前は今まで誰にも話したことの無かった劣等感と言い知れぬ不安を、どうしてこんな風に口走ってしまったんだろうという後悔と、何故だか店主さんなら分かってくれるんじゃないかという淡い期待で、ぐちゃぐちゃに絡まった糸のようだった。そうして、それを茶化すことも無くただ聞いてくれることが嬉しくて恥ずかしくて、声にならない唸り声を出した後、最後には「忘れてください」と小さな声で懇願した。そんな名前の様子を見て、店主が笑みをこらえきれなかったのは致し方ないだろう。それは彼女への冷笑では無く、慈しむような笑みだった。懸命に自分の立場と向き合う彼女は、ただただ美しく、どうかそのままで居て欲しいと、店主は祈りにも似た気持ちを感じていた。
「俺はあんたよりずっと適当に生きてきたから。あんたの気持ちを汲むってこともちゃんと出来てるか分からないけど。そう悩むことで救われる奴も居るんじゃないか」
「救われる、ですか?」
「誰だって自分のことを考えてくれる人ってのは嬉しいだろ?」
「そういうものでしょうか。…エゴじゃないでしょうか」
「本当にエゴで考えてる奴はそこまで思わないさ。やっぱりあんたは良い人だよ。偏見の多い東の国に居るのは勿体ない」
「いやいや、東の国の方だって、良い人はいっぱいいるじゃないですか!さっきのスパイス店の店主さんも、お話したら分かってくれましたし…それに店主さんの料理をずっと食べられるなら、東の国に移住するのもアリかもしれませんね?」
「それは料理人にとって最高の殺し文句だな。中央の女の人は誰にでもそう言うことを言うのかねぇ」
気恥ずかしさを隠す為にいつもよりも2割増しで喋る名前は、それに平然と返事を返す店主が少し憎らしいと思った。けれど店主が自分の話を聞いて、否定することなく、真剣に受け止めてくれたことが彼女にとってどれだけの救いとなったか。じんわりと帯びる熱は、先ほどから温度をあげるばかりだ。
「いつも子供扱いするのに、こういう時だけ東の男性は額面通りに受け取るんですか?」
「よく言うよ全く…あ」
そう言って、何かに気付いた店主は繊細な手つきで名前の顔に掌を近づけた。不意に近づいたそれに名前は自分の心拍数が一層上がり、体が途端に硬直するのを痛いくらいに感じる。すると店主は名前の頬を指先で掠めながら、いつの間にか口に食んでいた髪の毛を丁寧に耳に引っ掛けてこう言った。
「髪食ってるって…顔、真っ赤だけど?」
ひゃっと声にならない悲鳴を名前が出し、店主が思わず声を出して笑うのは、それから数秒後の話である。
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