book | ナノ
無垢の檻 2
あの夜から名前の生活は一変、とまではいかなかったが、少しずつ変わり始めた。一番は雨が降る直前に訪ねた店のオーナーから、話を聞いてもいいという連絡が入ったことだ。門前払いしたことを気にしてあの日名前が店を出た後、オーナーは一度外に出た。そこで蹲っている彼女を見て声をかけようとしたところ、突然立ち上がって自分とは反対の方向へ走り出してしまったので、その日はそれまでとなったのだという。数日後、窓口にして貰っていた宿にオーナーが訪ねて来たものだから名前は大変喜んで、二つ返事で商談の約束を取り付けた。その際あの夜の話をされたのだが、まさかオーナーが見ていた瞬間、自分が空腹に本能を光らせていたとは言えず、その件に関してだけ名前はなんとも歯切れの悪い返事しか出来なかった。
「そんな訳で、ようやく一件新しい商材が見つかりました。店主さんのお陰です。ありがとうございます!」
「俺、何にもしてなく無い?」
「そんなこと無いです!あの軒先でオーナーと会っていたら、空腹な私は上手く受け答えもできずそのまま話もご破算になっていたかもしれません。こういうのをご縁、って言うんですよ」
「そんなもんかねぇ。まぁ、俺としてはうちの店を贔屓にしてくれて助かるよ」
「店主さんのお料理は何を食べてもピカイチですから!こんなに美味しいのに商会の美味しいお店リストに無かったなんて、うちもまだまだですね」
「それは買い被りすぎだろ」
「店主さんは謙遜しすぎです」
「はぁ、まぁあんたがそう言うならそれでいいケド」
気が付けば名前は週に3回は青い髪の店主の店で夕食を取るようになっていた。一番奥のカウンターもすっかりと彼女の定位置となり、店主は彼女に席を聞かなくなった。これもまた、あの夜からの大きな生活の変化である。仕事に没頭するとついつい食事をおろそかにしがちな名前であったが、あれからはこの店に来ることできちんと食事をするようになった。そしてもう一つ、名前がこの店を贔屓にする理由があった。それは会話だ。元々無口なタイプでは無い名前は、商会としての人脈を絶たれた今この街に知り合いもおらず、仕事以外での会話をする機会に飢えていた。違う街であれば飲食店や市場、道の往来でだって、そのチャンスとタイミングさえあれば知り合いを作ることも容易い性格を持ち合わせていたが、往来で会話をすることも犯罪とされるこの国でなんの接点も無い中人脈を作るのは至難の業だ。そもそもそういった交流を面倒に捉える人も多いこの国の気質は、いわば名前にとって天敵のようなものだった。そこへいくと、会話が許可されていることは勿論、店主は程よく会話に付き合ってくれ、何より料理が最高に美味しいこの店を贔屓にしない理由が無かったという訳である。
しかし先ほども店主に伝えた通り、名前には一つ疑問があった。食品を取り扱う商会にとって、その国々の料理店は食材からスパイスまで、幅広い知識を持った食品のエキスパートである。当然その国ごとに美味い料理店はピックアップされ、商会内で情報共有されていた。名前もそのリストは普段から頼りにしているし、その頼りっぷりはどこの国へ行くにも必ずリストを持ち歩くほどだ。当然この店もリストに入っていて然るべき店だと名前は思う。しかしどれだけ探しても、この店の、また青髪の店主の情報を探し出すことは出来なかった。昨日や今日料理を始めた人間がこんなに美味しい料理を作れるわけも無く、けれど見ての通り店主はどこからどう見ても青年といった風貌で、年端も自分と変わらないだろう。どこかの店で修行していたかと訪ねてみてもはぐらかされるし、一体彼はどこで腕を振るっていたのか、名前の疑問は料理を食べる度に増すばかりだった。
「店主さん、こんなに美味しい料理を作れるのに有名店で修行していた訳でも無いなんて、実は魔法使いだったりして。なぁんて、ちょっと発想が子供っぽ過ぎますかね?」
「…それ中央ジョークってやつか?お転婆なのも程々にな」
「店主さんは私のことやたらと子ども扱いしますね。そんなに年も変わらないでしょうに」
「東の国としては、まだ子供みたいなもんだろ」
「えっ?それどういう…」
意味ですか。そう言いかけたところで、周りのお客から怪訝な眼で見られていることに気付き、名前は思わず口を押えた。そうだ、ここは中央の国では無い。魔法使いに対する偏見が色濃く残る東の国である。中央の国でも魔法使いに対するそういった考えが無い訳では無いが、「魔法使いみたい」という言葉は嘲笑や軽蔑の意味で使われたりはしない。どちらかと言えばポジティブな意味として使うことが多いし、そう言われたからと言って気を悪くする人も少ないだろう。それは中央の国の次期国王が魔法使いであることにも少なからず起因していたが、名前が個人的にも「魔法使い」に対してネガティブな感情を持っていないことが一番大きかった。結局その日はそそくさと食事を済ませ、名前が店で「ごちそうさまでした」以外の言葉を紡ぐことは無かった。
次の夜、名前は神妙な面持ちで店のドアを開けた。「いらっしゃい」といつもと変わらぬ声色で店主は名前を出迎えたが、そわそわと名前は落ち着かない様子でいつもの席に腰を下ろす。少し遅めの時間を狙ったのが功を奏し、先客は誰もおらず、店主が洗い物をする水音だけが店内に響いていた。
「はい、メニュー。今日は何にする?」
「えっ、あっはい。あの、オムレツを…」
「昨日もオムレツ食べて無かったか?別に構わないけど、」
「あ、そうでしたね。じゃあ…クリームシチューがいいです」
「はいよ」
いつもと変わらぬ会話が、どことなく素っ気なく聞こえて名前は自分の心臓がバクバクと音を立てるのを感じる。昨日の夜から名前が気になっていたことは、偏に店主に嫌な思いをさせてしまったのではないかという一点で、謝るのなら早いに越したことは無いと二日連続で店に赴いたのだった。
「今日はやけに静かだな。疲れてる?」
「え、いえいえ、そんなこと無いです」
「そう?はい、クリームシチュー。パンも一緒にどうぞ」
「ありがとうございます。店主さん、パンもとっても上手に焼かれますよね」
いつの間にか出来上がった美味しそうな湯気に、心臓も少しだけ落ち着きを取り戻す。スプーンから一口、口の中に広がるクリームシチューのふんわりとした牛乳の香りは一層名前の心を温めた。
「もしかして、昨日のこと気にしてる?」
黙々とクリームシチューを食べながら、いつ口火を切るか考えていた名前だったが、もう食べ終わるという頃。先に口を開いたのは店主の方だった。
「えっいや、そんなこと……あります」
「はは、素直だな」
「店主さんの気を悪くさせたんじゃないかと、正直気が気じゃなくて。あの、本当に配慮が無かったです。嫌な気分にさせてしまって、それに他のお客さんにもご迷惑お掛けして、すみませんでした」
「…あんたは、俺を嫌な気分にさせたんじゃないかってとこが引っかかってたの?」
店主は名前が思ってもみなかったことが気になったようで、いつも飄々とした面持ちの店主が心底不思議そうな顔をするものだから、名前もつられて小首を傾げる。
「?そうですけど…」
「俺は全く気にしてないよ。ご丁寧にありがとな。それよりうちの店に来てる客だって、あんたの仕事相手になる可能性もあるから、そこだけ気をつけた方がいい」
「私は店主さんに気にしてないって言って貰えて、心底安心しました。そうですね、他のお客さんのことも、気を付けます」
「そんな、ただの店主に気を使いすぎだよ」
「だってそれが私にとって仕事のお客さんでも、ご飯を作って貰う店主さんでも、そんなの何も変わらないじゃないですか。私にとってはどれも大切なお知り合いです。配慮が無かったのは事実ですし…」
「ふぅん、それも中央の気質ってやつなのかね。難儀だな」
「自分でもちょっと頑固だとは思いますが、私はそれを自分で大事にしたいと思ってます」
「まぁこの国では、まず知らないやつと関わろうとすること自体が稀だから」
「業務的に関わる人を、個として捉えないってことですか?」
「そこまで酷い訳じゃないけど、まぁ敢えて個として関わろうとはしない、って言葉の方が正しいかな」
「うーん…分かるような、分からないような」
「あんたはそのまま可愛く居てくれってことだよ」
「また私のこと子供扱いして!」
そう言って店主はいつもよりも少しだけ柔らかな空気で名前のことを茶化した。そして膨れた名前のご機嫌を取るように、残り物でも良かったらとルージュベリーのタルトとホットコーヒーを用意した。そのタルトが本当は名前の為に取っておかれていたものだということは、店主だけの秘密である。
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