book | ナノ
無垢の檻 1
※時間軸はネロが賢者の魔法使いになる少し前
中央の国出身の女の子が店主のネロとどうにかなりそうでならない話。
いつも通り糖度は低めです。
大きく息を吸い込むと、少し土の香りが混じったような、けれど晴れやかな不思議な空気に、名前は目を細めた。この国に来るのが初めてという訳では無いのだが、それでも異国の空気は新しい出会いへの高揚感と母国への少しの郷愁に、いつもむずがゆい気持ちになるのが名前の癖だ。人々が往来する大通りを一度見回してから、「よし」と気合を入れて、名前は荷物が目一杯詰め込まれたトランクを持ち直し、しっかりとした足取りで一歩踏み出したのだった。
東の国の首都である雨の街は、他国と比較すると首都の割りには自然を多く残す土地でもある。その為野菜は勿論ハーブや茶葉、スパイスなどの特産品も多く、今回名前が派遣されたのもそういった特産品を扱う商社との契約。もとい買い付けルートを発展させることが目的であった。
名前は生粋の中央の国出身者で、今も中央の国で特産品を扱う商社通しを結び付けたり、その国々の特産品を調べては仕入れを行う、謂わばバイヤーのような仕事をしている。一年のうちの半分はあちらこちらを行き来している年も多い。しかしそんな名前でも一つの国に半年もの期間滞在するのは初めてのことであった。最初その依頼を言い渡された時は国交が断絶している訳でもあるまいし、ちょっと大げさなのではと思ったし、なんなら東の国に着いた今でもそう思っている。依頼主からは半年間滞在する為の諸経費は勿論、相応の報酬も契約されているのでしっかりと成果を上げねば話にならないし、そんな大掛かりな仕事を一人でこなすのは初めてだったので、多少緊張感もあった。けれど名前とて経験を積んできたバイヤーである。絶対に成果を上げるぞと息を巻きながら、宿に荷物を下ろすとすぐに市場へと向かった。
二週間もすれば、いくつかの店で交渉に進める見通しが経ってくるだろう。それが名前の見立てであったし、経験則であった。けれどその予想は見事に外れ、東の国に着いてから二週間目。バイヤーとしての矜持ももはや折れる寸前となっていた。以前にこの国で商談をしに来た際は、もう確立されたルートを持った商社との、懇親会を含んだ少々気楽なものであった。勿論そこでもしっかり仕事の話はしたし、顔繋ぎもして貰った。先ずはその時の担当者を足がかりにと中央の国に居る間に連絡はしてあったものの、まさかその担当者がこの国へ着く三日程前に逮捕されたというのだから運が無い。確か夜中に路上で騒いだだったか寝ただったか。この国は法典が百を越えると何かの書物で読んだことがあるが、その威力がこんなにも厳格なものだったということを名前は思わぬところで体感した。そのような流れから、伝手を失った名前は飛び込みで営業をかけるのが主な手段となり、けれどこの国の気質も手伝って、足掛かりを作ることも出来ずに日にちだけが経っていったという経緯である。どうりで依頼主が半年もの期間を言い渡した筈だと自分の読みの甘さに嫌気がさしつつ、それでも出向くしか無い名前は毎日色々な商店や工房を訪ねたのだった。
それは本日十件目の店で門前払いをされた時だった。丁寧に頭を下げてから店の外に出ると、もう夕暮れも過ぎ、街頭が点々と大通りに明かりを灯していた。今日も収穫は無く、肩を落としながら宿までの道のりを歩いていると、不意にぽつりと冷たい物が頭に落ちた。まさかと思い空を見上げると、瞬く間に雨雲が一面を覆い、みるみるうちに雨脚は強くなる。泣きっ面に蜂とはまさにこのことだ。慌てて走り出すも、宿まではまだ随分とかかる。そう思ったら、この二週間溜め込んできたものがプツンと音を立てて切れてしまった。名前は走るのを止めて、目に留まった近くの軒先でしゃがみこんだ。通り雨かとも思ったが、雲を見る分には暫く止みそうに無い。じわじわとせりあがってくる涙は、自分への不甲斐なさ故の憤慨だった。目元を服の袖で乱暴に擦って、自らを落ち着かせるように息を吐く。その時だった。雨の匂いに紛れて、どこからか温かなスープの香りがほのかに鼻を掠めた。そういえば今日は朝から何も食べていないことを思い出すと、意地を張る頭とは相反してお腹は素直に悲鳴を上げる。悔しいやら、恥ずかしいやら。けれど切り替えが早いのは名前の長所だった。ここでぐずっていてもしょうがない。中央の女は度胸と愛嬌!と頭の中で唱えると、名前は勢いよく立ち上がり、そのスープの香りを辿ることにしたのだった。
「こんなところに、お店…」
先ほどの軒先から路地を一本曲がったところに、小さな明かりを見つけた名前はその店の軒先まで走りこんだ。ドアの前に立つと、先ほどの良い香りが色濃く立ち込めているのが分かる。軒先での悲壮感は何処へやら、期待に胸を膨らませドアを開けると、目に入ったのは奥に伸びる店内の、すっきりとした趣味のいい内装と照明。青い髪が印象的な店主は「いらっしゃい」と声をあげた。
「一人、なんですけど…」
「構わないよ。今は御覧の通り誰も居ないんで、好きな席に座ってくれて大丈夫」
好きな席、そう言われて名前が選んだのは、細長い店の一番奥にあるカウンターの一席だった。カウンターは調理している様子が見える場合も多く、その店がどんな食材を使っているのか自分が注文をしない料理でもすぐに分かる。その為、職業柄どんな店でもカウンターに座るのが無意識に染みついていた。席につくとすぐにメニューとお水が運ばれてきて、それをお礼を言って受け取る。先ほどのスープは一体どれだろうと、わくわくと想像を膨らませながらメニューを順に確認していく。しかしどれを見てもそれらしい料理が無いので首を傾げていると、名前が聞くよりも早く口を開いたのは店主だった。
「もしかしてお客さん、うちの店、初めてじゃない?」
「いいえ。初めてです!実はとっても美味しそうなスープの香りがしてこのお店を見つけたんですが、もしかして、スープじゃなかったかなって」
「あぁ、そういうことか。何か探してるから、日替わりだったメニューを探しているのかと思ったんだ。それにスープの香りってのも間違っちゃいないんだが…」
「間違ってないです?でも、メニューにはそれらしいものも無くて」
「いや、今日作ってたスープはメニューじゃなくて、まだ試作品なんだ。だから載ってない」
「なるほど、そうだったんですね。じゃぁ他のものにします」
「折角来てくれたのに悪いね」
「いえいえ、そんな」
確かにスープの香りに魅せられてドアを開けた名前としては少々残念だったが、試作品なら仕方がない。気を取り直してもう一度メニューに目を向ける。どれも魅力的な品々だったが、散々悩んで結局好物であるオムレツを注文することにした。注文を伝えると気さくな返事をした店主は手際よく卵を割り、フライパンを温め卵を流し込んでいく。瞬く間に良い香りが店を包んで、ふわふわとこちらまで温かな気持ちになるのだから料理とはつくづく不思議なものだと思う。
「お待ちどうさま」
「わぁっとっても美味しそう!」
つやつやと照るような形のいいオムレツは、注文してからあっという間に名前の元に運ばれた。カウンターから出されたオムレツを受け取ると、店主は「あともう一つ」と口にして、小さめのボウルを差し出した。
「あれ?私、オムレツしか頼んでないですよね?」
「スープが出せないから、代わりにポトフをどうぞ。軽めによそっておいたから食べきれると思う。東の国の食材を味わってみてくれよ」
「ありがとうございます!あ、あと私、そんなに観光客感出ていますか…?」
「観光客というか、どちらかといえば仕事って感じか。あんなに熱心に食材を見る客、この土地の人間ではなかなか居ないよ」
職業病がそんなにも出ていたことが気恥ずかしくなり、頬をかきながら謝ると、店主は咎めたつもりは無いと笑った。もう一度お礼を言ってからポトフの入ったボウルを受け取ると、スープに負けない良い香りが鼻孔をくすぐる。スプーンで掬って一口、口の中一杯に広がった優しい味に、名前は一瞬だけ、本当に一瞬だけ先ほど拭った涙が溢れそうになった。
「美味しい。本当に…美味しいです。雨が降ってくれて良かった」
「そりゃどうも。そんな顔されたら、料理人としても本望だよ」
結局オムレツもポトフもあっという間に平らげてしまった名前は、自分がどれだけ空腹だったのかを実感した。よくよく考えてみると、仕事が行き詰っていたこの一週間はほとんど碌に食事も取らずに街を駆けずり回っていたのだと気付く。あの雨の中走る気力も失ったのはそれが原因だったし、けれど気力も無かったからこそこの店に出会えた。オムレツもポトフも絶品だったし、何より料理に使われていた東の二股ニンジンや笑いニンニク、それと店主自家製のハーブの話を聞けたのも良い収穫だった。この二週間の苦しさはこの日の為にあったのだと感じてしまうほど、行き詰った名前にとって温かな食事と店主との会話は気力を取り戻すのに十二分なものになっていた。食後のコーヒーを啜りながら、明日はどの店にアタックするかを自然と考えて、名前は改めて食事の偉大さを実感したのだった。
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