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綴る日×日 tuzuru nichi×nichi

 昨夜名前の仕事が終わり、帰路に着いたのは23時を過ぎた頃だった。所謂ブラック企業と呼ばれるような会社に転職して1年と少し。確かに残業は多いし下手すれば今日のように終電間近の時間になることも稀にあったが、名前はこの仕事を天職だと思っていたし周りが思うよりも苦では無かった。確かに今日のように終電とタイムカードを切る時間を争うのはやり過ぎだとは思うが、今はなんといっても繁忙期なのだ。その一言で終わらせられること自体が充分やり過ぎなのだが、名前の中ではまぁしょうがないと思える退勤時間で、言ってみれば許容の範囲内だった。だからわざわざ同じ家に住む研磨に連絡をすることも無かったし、帰ってきた時も普通に玄関の鍵を開け、普通に居間で研磨に帰ったことを告げ、普通に風呂に入って就寝したのだ。けれどそれは名前の主観そのもので、確かに彼女の仕事が激務であることを知っていればあり得ないことではないのは理解できるが、それでも感覚として”常識的”にそれが許容の範囲というのは大分無理があるだろう。それはこの家の家主であり、名前の帰りを律儀に待っていた恋人の研磨も同様の”常識”だった。事実、研磨は名前が帰って来るまでの数時間を動画の編集に充てていたが、それもどこか時間を潰した感があったことは否めないし、そこでゲームに手を付けなかったのは彼女が帰ってくる・或いは連絡が来るタイミングでいつでも終わらせられる物事の方が都合がいいと考えたからだ。しかしそんな研磨の分かりにくい配慮を、まだ布団の中ですやすやと寝息を立てている名前が実際どこまで把握しているのかは、昨夜何の連絡もよこさなかった名前の態度からして想像に難くない。そもそも研磨は随分前から名前の危機感の薄さには諦観の念すら覚えていたし、彼女が成人という立場である以上口煩く帰宅時間について諭すのは過保護と言わざるおえないので、本人に伝える気は毛頭無かったのだが。けれどそれは研磨なりの諦めからくる理解であって、納得したという意味では無かった。結局あっけらかんとした面持ちで帰ってきた名前のことを研磨は通常の3割増しの塩対応で迎えたし、それに感づいた名前もそれを追及こそしなかったが、いつもなら嫌だと言っても研磨のベッドに勝手に潜り込むことの方が多いのに、研磨が気付いた時にはしおらしく自分のベッドでそそくさと就寝していたのだから、ぎこちない空気を修復するにもきっかけもなにもあったものではなかった。結果として研磨は今日という名の早朝に、まだ覚醒する前のぼやっとした視界の中で卵を割る羽目になったのだった。

「良いにおいがする…」
「おはよ。目玉焼きだよ」

 努めて冷静に、普段通りに。そう心の中で思っている時点で冷静でも普段通りでも無いのだが、研磨にしてみれば昨夜のなんとも後味の悪い就寝を考えると、名前の顔を見て表情に出てしまわないか気掛かりで仕方なかった。自分が”嫌な表情は豊か”だということは、幼馴染にも太鼓判を押されているからだ。

「研磨昨日も遅くまで配信してたんじゃないの?」
「んー。でも目、覚めたから」
「そっかぁ。ふむふむ」

どうにも彼女からの視線はむず痒く、にんまりと口角が上がっているだろうことはその視線から想像に難くない。今彼女の顔をみたところで癪に障るだけだと判断した研磨は、そのまま目玉焼きを半熟加減で仕上げることに専念しようとフライパンから目を離さずに生返事をするのみに留めた。それから「後少しだから、先に顔洗ってきたら」と彼女を洗面所の方へ自然に誘導することも忘れない。その間にこちらも形勢を立て直して、それからは”いつも通り”をきちんとする。シミュレーションゲームをやるような要領で頭の中でてきぱきと段取りを汲み、そろそろ卵もいい加減だと火を止めた。しかし、皿を取りに食器棚へ向かおうとしたところで計画が狂う。それは突然伸びてきた腕に抱き留められて、身動きを封じられたからだった。研磨とてこのパターンを全く考えていなかった訳では無い。なぜなら名前は母校音駒高校の体育館で3年間を共に過ごしたあの頃から、研磨の思考の外に居る、極めて珍しい人物だったからだ。

「昨日はちゃんと連絡しなくてごめんね?」

勿論、この腕の正体は名前である。火加減に気を取られている間に背後に回ったのだろうか。たどたどしくも意思のある腕は離れる気配が無く、背中には彼女の頬の柔らかさを感じる。その頬の熱に、昨夜まで感じていたモヤモヤとした感情が、まるで気の抜けた炭酸のように溶けていくのを感じた。こんなことなら目玉焼きなんて焼かなければよかったと、研磨は心の中で悪態をつく。自分でこの悪態は照れ隠しなのだということは分かっていたが、研磨は本人が思っている以上に態度には出ていないので、そのあやふやな言い訳の代わりに出てきた言葉は随分とその場に馴染むものだった。

「遅刻するよ。それに今日も遅いんでしょ」
「んー、でも出来るだけ早く帰るようにする。研磨とご飯食べたいし!」

そうやって今度は鈴が転がるみたいに笑う彼女に一等弱いことを、研磨は知っていた。それは出会った頃から変わらない、もはや癖のようなものだ。

「熱いから離れて」
「もー…つれないなぁ」

いつしか弱弱しくも回されていた腕は解けたが、自然と絡まる指先はいつまでも熱を持ったままだ。

1.目玉焼きで測る愛情


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