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カンパニュラの幸福論 3



 災難というのはどうしてこうも重なるのだろう。
今朝は盛大に寝坊をして、朝ご飯を食べそこねた。仕事では自分でも呆れるようなケアレスミスを連発。大事には至らなかったものの、先の見えない残業になってしまったせいで夜勤前の狡噛くんとの食事の約束は流さざるおえなくなってしまった。何をしても上手くいかない日。そういう日は兎に角早く家に帰って、寝てしまうに限る。そう分かってはいても、残業のお陰で家に着いたのは日付が変わってからだった。

 玄関に入るなり履きなれたパンプスを脱ぎ捨てて、コートを乱暴にハンガーにかけてからベッドにダイブする。それと同時に、なんとも情けない溜息が狭い1LDKに木霊した。今日の自分の反省点について嫌という程反芻して、それからもう一度さっきよりも大きな溜息を吐く。一つ一つのミスを頭の中で挙げていっては落ち込んで、しょうもない思考に乱されて、けれど一度初めてしまうと止まることを知らないように後悔が溢れてきた。ベッドの心地良さに包まれても、今日はどうにも気が収まらない。一番の理由はきっと、会える筈だった彼に自分のせいで会うことができなくなったからだろうと、その理由を考えてはまた落ち込んだ。私は最近、少し彼に依存しているのではないだろうか。空白の年数、一人でやってきたし大丈夫だという自負があった。それなのに再会してしまった途端これではどうしようも無い。
もう一度だけ、今度は深呼吸をするように大きく息を吸ってから息を吐きだす。時計を見るともう時刻は1時を過ぎていた。これからお風呂に入って、頭を乾かして、どんなに頑張っても2時は過ぎてしまうだろう。考えただけで気が滅入るが、入らないで寝たら明日の朝にまたとんでもなく後悔することが目に見えていたので、なんとか重い体を引きずってバスルームへ向かう。うつらうつらとしながら適当にシャワーを済ませてルームウェアに袖を通すと、こんな時間に突然響くコール音に私は目を丸くした。

”狡噛慎也”

画面には、今頃夜勤で奔走中であろう恋人の名前が表示されていた。慌てて電話に出ると、声が上ずった。恰好悪い。

「ど、どうしたの?」
「名前、もう寝てたか?」
「ううん、丁度お風呂から出たところだよ。狡噛くん今日夜勤でしょ?」
「ああ、そうだったんだが」
「だった?」
「今名前の家の前なんだ。良かったら開けてくれ」
「えっ、早く言って!」

驚いた私は電話も切らないまま、急ぎ足で玄関へ向かい鍵を外して扉を勢いよく開ける。そこには本当に仕事中といった出で立ちの狡噛くんが立っていた。今日は会えないものと思っていたので、嬉しさの余りその姿を目に焼き付けるようにまじまじと眺めてしまう。先ほどまでの疲労はどこへやら、なによりもときめきが勝ってしまう自分に心の中で少し苦笑した。狡噛くんはといえば自分から電話をしておいて「本当に俺かよく確認してから扉を開けろ」と眉をひそめながらお小言を降らすので、私は部屋に招いて玄関を閉めるや否や自分から狡噛くんに抱き着いた。背中に回された体温に、先ほどまでの冷え冷えとしていた心情も徐々に温度を取り戻していくようだった。

「今日は夜勤じゃなかったの」
「今夜は街頭スキャナーの色相も安定していたから。事件が発生するまでは待機になった」
「たまにはそういうこともあるのね、驚いた……」
「名前」
「ん?」
「髪が濡れてる」

名前を呼ばれて顔を上げると、私の髪の毛を掬い上げて狡噛くんは嬉しそうに微笑んだ。


「あの、やっぱり、ちょっと」
「今更何を遠慮してるんだ。前向いてくれ」

 彼氏に髪の毛を乾かしてもらうというベタなシチュエーションが恥ずかしくて、随分と抵抗したものの半ば強制的に前を向かされ結局体育座りになって顔を伏せる。狡噛くんは私が観念したのに気を良くしたのか、後ろから私を抱えるように座って、それからしっかりと髪にオイルを付けてからドライヤーに手を伸ばした。ウォンウォンとけたたましい音の中、狡噛くんの大きな手が私を撫でるように往復して、髪を丁寧に掬いあげていく。その仕草にどうしたって安心して、むず痒い幸福の中で瞼を閉じる。狡噛くんの手はいつだって優しいけれど、今日はなんだか特に、慈しむという言葉がぴったりと当てはまるような、そんな触り方だ。私の方が年上だというのに、まるで子供をあやすようなそれに戸惑って、けれどやっぱり嬉しくて。狡噛くんは私を甘やかすのが本当に上手だと、そう思う。上手過ぎて、いつか私は彼にとっての負担になるんじゃないのかと不安になってしまうぐらいに。そしていつの間にか、そうやって不安になっても彼の手を離せなくなってしまったのは、彼には絶対に知られたくない私だけの秘密だ。

「終わった」
「うん。ありがとう」

やっぱり今日の私は、少し弱っている。仕事中の彼が私を思って訪ねてくれて、髪を乾かして、うんと甘やかしてくれて、これ以上何を望むのか。分かっていても、どうにも弱気な想像が頭を掠めて離れない。こんな情けないことばかりで、いつか愛想を尽かされてしまったら、どうやって生きていけばいいのだろう。馬鹿みたいだと自分でも思う。けれどどうしてもそんな不安を悟られると思うと狡噛くんの顔が見れなくて、体育座りのまま膝に顔を埋めて暫くじっとしていた。すると狡噛くんは何を思ったのか、そんな私を後ろからすっぽりと腕の中に納め、私の首筋に唇を寄せた。

「何をしたら、名前は元気になる?」
「もう充分過ぎるくらい、色々して貰ってる。仕事中なのに来てくれたし」
「それは俺が会いたかったから」
「またそうやって甘やかすでしょ」
「それも、俺が甘やかしたいだけだよ」

そう言って私を包む腕の力が強くなって、私の心臓は簡単に跳ねる。首筋から後頭部、それから耳元、一つ一つ丁寧にキスを落とされて、もう限界だと羞恥に狡噛くんの腕から逃げ出そうとすると、一層力を込められて身じろぐことも出来なくなってしまう。

「こんな風に甘やかして、私が狡噛くんに依存したって知らないよ」
「それは大歓迎だな」
「最近ちょっと、狡噛くんは可愛げが足りないんじゃない…?」
「俺は名前が可愛いから問題無いけど」
「……もう、好きにして……」
「お望みの通りに」

精一杯の強がりもあっけらかんと返されてしまっては、今日はいよいよ勝てる気がしない。白旗を上げた私を狡噛くんは軽々と持ち上げて、それから二人でベッドにダイブした。狡噛くんの家にあるベッドとは違い我が家の貧相なベッドは大人二人にはお世辞にも”充分”とは言えないサイズで、実際にはぴったりとくっ付かなければ落ちてしまいそうな狭さだ。けれど今日だけはなんだって理由にして、狡く縋らせて欲しかった。黙ったまま狡噛くんの胸に顔を寄せると、彼もゆっくりと規則正しいリズムで私の頭を撫でる。朝起きた時に狡噛くんの体温が隣にあったら。そんなことを願いながら、私は今度こそ瞼を閉じた。

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