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未明の夜鷹



薄っすらと膜が張ったような思考が、ただゆらゆらと揺蕩っていた。突っ伏した腕の隙間から時計に視線を送ると、時刻は2時を過ぎた頃。ああ、私も機能的には人間なのだな。そんな取り留めの無い思考の波に幾ばくか納得した私は、そこからまた腕の中に顔を埋めなおした。夜勤という名の勤務中であっても、今この世界は平和そのものらしい。その証拠にいつもは警報で騒がしいオフィスは静まり返り、いくつかの機械が唸るのみである。このまま朝までこの退屈で生産性の欠片も無い時間が過ぎることを私はただただ祈るばかりであった。

「おい。勤務中だぞ」
「…」
「起きてるのは分かってる」
「…」
「返事ぐらいしろ」
「はい…外は平和みたいですよ」
「そういう問題じゃ無いって言ってるんだ。昨日の始末書はもう書いたのか」
「狡噛監視官、お母さんみたいってよく言われませんか?」
「お前なぁ」
「おかあさん後5分」

私の平穏な眠りを妨げたのは言わずもがな声の主である狡噛監視官だった。おかあさん、と口にして突っ伏した直後に首根っこを乱暴に掴まれて、思わず可愛さの欠片も無い声が出る。突然の光に視界のピントが合う筈もなく、無理やり起こされた私は目前にあるモニターの文字を視界に入れてもそれが意味を成すことは無く、先ほどの波のようにただゆらゆらと漂うのみであった。

私の上司である狡噛監視官は真面目な人だ。まあ、その上を行くクソが付く程真面目な監視官の次に、だけれど。今日は珍しく2人体制の夜勤で、狡噛監視官は先ほどから眉間に皺を寄せて夢中で何かの資料を熟読しているようだった。その姿はまさに監視官という役職に恥じない姿勢そのもので、私はといえばこちらも執行官というある意味「人間」としては扱われない社会のお荷物候なので、やはりその名に恥じぬようのらりくらりとこの夜を過ごすことしか頭に無いのだった。

「狡噛さん。それ面白いですか?」
「事件の資料で面白いなんてことあると思うか?」
「質問に質問で返すのは、モテない男のやることですよ」
「今後の参考にするよ」
「ほーんと、狡噛さんはつまんない男だなぁ」

ぎこぎことデスクチェアの背もたれに負荷を掛けながら、間抜けな声が空を切る。狡噛監視官はそんな私のことなど眼中にある訳もなくやはり資料に目を向けたままで、その様が私はどうしようもなく面白くないのだ。実直で、清廉で、そんな男が一体何に声を荒げ心を乱すのか。再度机に突っ伏してから盗み見るように横顔を眺めては、そんなことを考えた。こうして物騒な思考を頭の中で育んで、潜在犯としての自分を1つずつ私は肯定していくのだ。やはり夜の思考なんてものは、ろくでもなく、その膜は全てを鈍らせる。


次に眼が覚めたのは、あれから30分程経った頃だった。肩に掛かる覚えのないそれに違和感を感じて手繰り寄せると「あ、」と自分では無い音程が鼓膜にじわりと響いた。

「本当に今日は平和そうだからな。いざって時に眠くちゃ敵わないだろ」

段々と小さくなる語尾は、覚醒前の脳に心地よく届いた。ふと私に毛布を掛けた瞬間の、行き場の無い手が視界を横切ったのが見えて、私は自分で考えるよりも早くその手に自分のそれを重ねた。どうしてかって、そんなの、自分でも息を呑むような出来事だった。ただその指先はごつごつと無骨で、けれど綺麗に切られた爪がなんとも憎らしい。触りながらわきあがるのは、後付けに似た好奇心と悪戯心。指を一本一本確かめるように動かしゆっくりとその感触を味わうようになぞると、びくりと一瞬震えた後、彼は勢いよくその手のひらをひっこめた。

「なっ、どういうつもりだ」
「感謝を込めて。上司を慈しんでみました」
「お前なあ…誰にでもやるのかこういうこと」
「ふふ、狡噛さんだけですよって言ったら、嬉しいんですか?」
「…言ってろ」

頭を抱えた狡噛監視官は、吐き捨てるようにそう言って自分の席に戻っていった。どうやら毛布はそのまま私に譲ってくれるらしかった。きっと今夜は、夜が明けるまで平和なのだろう。これは何か予感めいた確信だった。そしてきっと、この夜が私と彼が近づく最初で最後の夜なのだろう。それでも、あの指先をもっと知りたいと考えてしまっただなんて。やはり夜の膜は私の思考をひどく鈍らせる。肩に掛かった毛布に触れながら、私はもう一度瞼を閉じたのだった。


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