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カンパニュラの幸福論 2



 あの夜の甘ったれた告白から早2ヶ月。私は司書と外部委託のダブルワークを続けており、忙しいなりに充実した日々を過ごしている。狡噛くんも研修所での勤務は残り1ヶ月となっていたが、元々要領のいい子なので上手く仕事とプライベートを分けているようだった。お互い2ヶ月前と決定的に違うことといえば、私の帰る家が1週間の大半は狡噛くんの住む一人暮らしのマンションになっていることと、私が初めて狡噛くんの家にお泊りをした日の一週間後にセミダブルのベッドがクイーンサイズのものに変わっていたことである。2回目のお泊りの日、私の声にならない叫びが明け方の寝室に響いたことは言うまでもない。高給取りの考えることは時として狂気の沙汰である。


 土曜日の午後。当たり前のように狡噛くんの家で過ごしていた私は、家主である狡噛くんと一緒にソファで横並びになりお互い読書に勤しんでいた筈だった。手元の本へと視点を落として、どのくらいの時間が経ったのだろう。集中力が切れたのを感じてふと辺りを見回すも隣に狡噛くんの姿は無く、窓の外に目を向ければ一体いつ降り出したのか、随分と暗くなった空の中でしとしとと降る雨の音に心なしか体温を感じた。私は雨が好きだ。自然が管理されその叡智さえも人の手に納められた今、それでも神の恵みは私たちの思惑なぞまるで嘲笑するかのように降り注ぐ。反シビュラと言うほど熱心な信仰を持っている訳では無いが、やはり抗いようの無い『自然』があることは、人を人たらしめる要因では無いかと思う。そしてその圧倒的な力は時に希望であり絶望になりうる。今では閲覧することも困難な、けれど確かにその時代に生きた数多の書籍に私はそれらを教わった。もう現代では脅威とは認識できないであろう様々な自然の事象に対する畏怖と敬意に、些か不謹慎ではあるが私はいつも心を躍らせたものだ。そういえば学生の頃、どこかの本でそれらを越境した理想郷を描いた本を呼んだ覚えがあった。

「名前、もう本はいいのか?」

 声を掛けられて思考の帰還と共に顔を向けると、狡噛くんがキッチンから顔を覗かせていた。どうやら私よりも先に読書を中断し、お茶を入れてくれている最中だったらしい。それから幾ばくも無いうちに、狡噛くんは良い香りと共にマグカップを運んできてくれた。それをテーブルの上に置いてからとても自然に私の隣に腰を下ろすと、座り心地の良いソファは2人分の重みに小さく軋んだ。その音に少しだけどきりとして、おずおずと狡噛くんの方へ顔を向けると、甘ったるさを隠そうともしない瞳が嬉しそうにその視線を絡ませてくるのだからたまったものではない。私はその視線にこれぽっちも気付いていないような素振りで、お礼を言ってから狡噛くんが入れてくれたミントティーに口を付ける。すっきりと目が覚める朝の日差しのような香りは、先ほどまでフル回転していた脳を労わってくれているようだった。

「理想郷の造語。覚えある?」
「理想郷?」
「作者が作った理想郷。それにちなんだ童話を書く作家だった気がするんだけど…」
「そういえば昔読んだことがある気がするな」
「えーっと、確かイーハ、イーハトヴォ?」
「…イーハトーブ?」
「それ!それだ。イーハトーブ!」

もやもやと霧がかった謎が晴れたことに興奮して狡噛くんの方に勢いよく顔を向けると、整ったご尊顔は想像以上に近くにあった。その一瞬で体中の熱が顔に集まるのを自分でも感じて、思わず顔を背けようと下を向くもそれは目の前の狡噛くんに阻止される。有無を言わさず顎を上に向けさせられて、強制的に狡噛くんと視線が交わった。あんなにも甲斐甲斐しく可愛げのあったいつかの少年は、もうすっかり鳴りを潜めてしまったのだ。

「で、なんでまたイーハトーブ?」
「…雨を見て、昔の人は自然への畏怖と敬意を生活に感じることが出来たことが羨ましいと思ったの」
「確かにこの管理された現代じゃ、そこに理想郷を描くのは難しいかもな」
「もうシビュラ自体がある種のイーハトーブなのよ。でも、生まれた時からそこに従属することしか出来ないのはとっても」
「つまらないって?」
「そうは思わない?」

先ほどまで羞恥でいっぱいだった私に、この至近距離を意識させないように興味を擽る会話を繋ぐ狡噛くんは、さすが心理学を学んだだけのことはあるというか、その秀才っぷりを遺憾なく発揮しているというか。学んだ後にそれを日々に生かすというのは簡単に出来ることではない。その知識の使い方に疑問符を飛ばすことはあるものの、やはり概ね彼のその手腕にはいつも感嘆するばかりだった。けれどそれは徐々に私の顎を掴む手とは反対側の腕が私の背を支え、またゆっくりと狡噛くん自身が私に重力を向けていることをおいそれと受け入れる理由にはならないのである。

「ねぇ、さっきから重いんですケド」
「そうか?」
「とぼけないで」
「ちゃんと背は支えてるだろ」
「そういう問題じゃ無くて」
「どういう問題?」

にやにやという擬態語がぴったりと当てはまるやらしい笑みに、心のどこかで無駄だと悟りながらも私は抵抗を諦めない。だってまだイーハトーブの造語の作者だって思い出してはいないし、入れてくれたミントティーは口を付けたばかりだ。それに雨に紛れて空は暗くなっていてもまだ時計は午後2時を回ったところ。そんな明後日の言い訳を幾つ並べてみても、狡噛くんはどこ吹く風だった。それどころか自信たっぷりとでもいうかのように反転しきった世界でこう告げたのだ。

「イーハトーブってやつを俺は今、目の前で見ているんだがな」

言葉というのは、紡げなくなった方の負けだ。そして私は狡噛くんのその一言に太刀打ちできる言葉を見つけることができない。それでもただ降伏をするだけというのは、あの日の少年を知る私にはとても不服で屈辱的だった。だからこれは、最後の抵抗だ。ふっと口角を柔らかく上げるように笑った私に、狡噛くんが一瞬気を取られたのを見過ごさない。その隙をついて彼のワイシャツを強引に引っ張ると、倒れこみながらも私を潰さない配慮を見せた矢先にこちらからキスをお見舞いしてやった。唇を離す頃あの日の少年が垣間見えたなら、それは私にとってイーハトーブの先なのかもしれないなんて、彼には絶対に言わないけれど。


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