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2.誰が為にペンテコステ



 あの日からまたちょくちょく練習の見学をするようになった私は、自然と孤爪くんと話すことができるようになっていた。お互いに避けていたのが嘘のように、というより私が避けるので孤爪くんが併せてくれていたのだろうけど、今はあの気まずい空気は鳴りを潜め、いくばくか柔らかいものになっている。なので朝会えばおはようと挨拶をするし、ごくたまに孤爪くんは「今日も練習見にくるの」と声を掛けてくれる。クラスメイトなのだから当たり前の距離感なのかもしれないが、私にとってそれは目覚ましい進歩だった。そして一番の変化はなんといっても黒尾先輩との距離である。練習を見に行くうちに私のことを孤爪くんのクラスメイトだと認識して貰えたようで、ある日突然苗字を呼ばれた。それからは廊下ですれ違えば声を掛けてくれるようになり、たまに世間話をするまでになったのだ。この気持ちをなんと表現していいのか分からないが、例えばアイドルの追っかけをする人はこんな感じなのではないだろうか、と突拍子も無いことを考える。ちなみに前にこの話を友人にしたところ本人には絶対に言うなと念押しされた。そうして穏やかな日々を過ごしている内に、あっという間に3月の初旬。今日は3度目の卒業式練習日だ。

 自分の席に着席するといつも隣に居る子はお休みのようで、今日の隣は孤爪くんだった。お互いおはようと短い挨拶を交わして前を向く。卒業式の主役である3年生は祝辞や卒業証書の授与など役割が多々あるが、在校生のやることと言えば校歌斉唱、それから拍手ぐらいのものだ。その為2年生の練習は兎に角ただぼうっとしながら前を向いているだけの時間がやたらと多い。そんな退屈な練習の途中、いつものように飄々とした面持ちなのかと思いきや小さな欠伸を繰り返す孤爪くんが視界の端に写り、その様子が可愛らしくて私は俯きながらにやにやと弛む顔を手で隠した。そうして幾ばくか孤爪くんのうつらうつらした様子を眺めていると、もうすぐ卒業する黒尾先輩のことがふいに浮かんでくる。私は黒尾先輩に声を掛けられる度、分かりやすくふわふわとした気持ちになって、それから前髪を気にしたりさり気なくスカートを直したり、いつにも増して忙しなくなる。そんな姿を見て先輩は意地悪く笑ったり、はたまたふわっと優しく笑ったりするのでとても心臓に悪い。先輩は大学でもバレーを続けるのだろうか。卒業しても、今のようにたまにはバレー部に顔を見せたりしてくれるのだろうか。来週の卒業式以降、会える日はやって来るのだろうか。そんなことを取り留めもなく考えて、それから思考は孤爪くんにシフトする。それはこの、今の黒尾先輩と私の距離感の原因についてだった。元々は文字通り見ているだけで満足だったので、友達になりたいだとか、あわよくば彼女になりたいだとか、そんなおこがましい気持ちは露ほどもなかったのだ。けれど孤爪くんが練習を観に来ればと言ってくれたお陰で、自分では想像もしなかった関係を作ることができた。これは孤爪くんが居なければ絶対に無かったことで、だからちゃんとお礼が言いたいとあの日からついぞ考えていたのだ。けれど孤爪くんにそうやって直接お礼を言うような機会はなかなか巡ってこなかった。教室に居る時はゲームをしていて話しかけられる雰囲気では無いし、バレー部のミーティングで居ないことも多い。放課後になればすぐに体育館に行ってしまうし、そうこうしていると私は帰る時間になる。挨拶はしてもなかなかちゃんと時間を取れることは無い。そんな訳で、今隣に孤爪くんが座っているこの時間こそ、私に訪れた最初で最後のチャンスなのだと思った。隣を見ると孤爪くんも眠気が覚めてきたらしく、今なら小声で話しかけられそうだ。心の中で頑張れ私と自分を鼓舞すると、私は孤爪くんを小さな声で呼んだ。

「孤爪くん、孤爪くん」
「何?」
「あのね、ずっと言おうと思ってたんだけど…練習来ていいよって言ってくれてありがとう」
「俺は別に、許可とかした訳じゃないし」
「でも孤爪くんが言ってくれなかったら私あれからも練習見に行けなかったよ」
「今だって勝手に来てるんじゃん」
「で、でも。とにかく今行けるようになったのは孤爪くんのお陰だと私は思ってるから!ありがとう」

周りの生徒も飽き始めた頃だったのかボソボソと話し声が彼方此方で聞こえてきた為、私達の会話もさして目立ってはいなかった。先日教室で会話した時と同じように、やっぱり私達の視線が交わることはなく、けれど期待に弾むような、小さな頃に意味も無くどきどきとした内緒話を思い出すような感覚に私の心は踊っていた。そうして私が2回目のありがとうを無理矢理に通すと、孤爪くんはぱちぱちと瞬きをして、それから心底呆れたような表情で溜息をついた。

「はぁ」
「なんで溜息?」
「苗字さんは意外と強情だなと思って」
「それを言ったら孤爪くんだって結構頑固だよ」
「苗字さん程じゃないよ」
「…そういうところ」
「あれ?これ終わらなくない?」

溜息と、それから軽口と。私は言葉のやり取りが楽しくなって、次から次へと言葉が口から溢れてくる。そして孤爪くんの雰囲気もいつもよりどこか柔らかいように思えて安堵した。この会話を楽しいと感じているのが私だけでは無いのなら嬉しいな。そう思って自然と孤爪くんに視線を向けると、孤爪くんは何かを言いかけた。けれどそれは言葉にはならなかった。通路を歩いていた先生にジロリと視線を送られてしまったので、二人とも慌てて口を閉じそのままじっと嵐が過ぎ去るのを待つしか無かったからだ。それからは周りも静かになり始め、結局そのまま一言も話すことなく練習は終わっていった。


 それから一週間が過ぎ、いよいよ卒業式当日を迎えた。本当に今日で3年生は卒業してしまう。明日からは移動教室で3年の教室前を歩いても黒尾先輩が声を掛けてくれることは無いし、体育館に練習を見に行っても先輩が私に挨拶をしてくれることも無い。頭では分かっている筈なのに、明日からその日常が始まることがどうしてもよく分からないのだ。頭の中で一人ぐるぐると渦巻く思考に眩暈がする。私がどれだけ分からない、と駄々をこねたところで時間は確実に過ぎていくし、私の気持ちなんて誰にとっても知ったことでは無いのだ。そうやって式の途中に考えてばかりいたら、気が付けば式も終盤、3年生は退場するところだった。ふと我に返って慌てて席を立ち、退場する姿に拍手を送る。その時目の前を通り過ぎる黒尾先輩を見つけて、私はぐっと喉が詰まるのを感じた。すると、黒尾先輩と目が合った、気がしたのだ。まさか、と都合の良い解釈だと自嘲するも、そのまさかに反して黒尾先輩は自分の眉間をとんとんと2回つついた後、やっぱりいつものように見透かした笑顔で私を見据えた。口元が『み け ん』と動いたように思えて、私は自分の顔を慌てて両手で覆い隠す。一体私はどれだけ難しい顔をしていたのか。顔から火が出るとはまさにこのことだ。それからはまともに前も見れずに、ただ俯きながら私は空っぽの拍手を送り続けたのだった。

式が終わると1年生は後片付け、2年生はそのまま自然解散となる。部活動をする子達にとっては3年生と学校で会う最後の機会なので、名残惜しいものになるのだろう。いくら練習を見ていたとはいえ、私は今日のような日にまで割って入ろうとするような無礼者では無いので、さっさと帰ってしまおうと荷物を取る為教室に戻ることにした。友達も部活に入っている子ばかりだったので今日は一人の下校だ。教室に入ると誰もおらず、私は自分の荷物を持って足早に廊下に出る。階段を降りてさぁもう下駄箱というところで出会ったのは、てっきり今頃3年生との別れを名残惜しんでいると思っていた孤爪くんだった。

「あれ?もう帰るの?」
「荷物を取りに来ただけ」
「そっか。バレー部で打ち上げとかあるの?」
「別日にあるよ。面倒くさいけど…」
「そんなこと言ったら黒尾先輩達泣いちゃうよ」

孤爪くんらしいなぁと思って笑うとそれに対しての返答はする気が無いようで、いつもならそのまま話を切り上げそうなものなのに、何故だか孤爪くんは動かない。少しの違和感に首をかしげていると、孤爪くんから飛び出したのは意外な一言だった。

「苗字さんこそ、クロに会わなくていいの?」
「えっなんで黒尾先輩?確かに孤爪くんにはお礼言ったけどさ」
「......クロのこと、好きなんじゃないの」
「っは!!?えーっとそんなんじゃないよ!勿論黒尾先輩は確かに憧れだしかっこいいけど、そんな告白したいとか、付き合いたいとか、そういう次元じゃないっていうか…」
「ふぅん」
「孤爪くん、気を遣ってくれたの?」
「別に、」
「へへ、ありがとう」
「だから、別に」
「うん。でも、やっぱり。嬉しいもん」
「…ほんと、苗字さんは強情だね」
「えっ」

そう言ってふっと笑った孤爪くんを見た瞬間、突然ぱちぱちと綿菓子がはじけたような甘く艶やかな感触が体中を巡って、私はあわあわと声にならない声を出した。全く意味が分からないとでも言いたげな視線をこちらに向ける孤爪くんに、けれど返す言葉が見つからない。なんなんだろうこの感覚は。初めて孤爪くんのトスを見た時と少しだけ似たような、宝物を見つけたような、そんな感覚だった。結局私が使い物にならなくなっていることを察知したのか、孤爪くんはじゃあねと言って教室に戻っていった。その姿を呆然と眺めることしか出来なかった私は、友達のメールで我に返る。たまに一緒にバレー部の練習を見に行っていた友達は、その文面からも分かるような興奮具合で連絡をしてくれていたのだった。

"なんでか分かんないけど、名前のこと黒尾先輩が探してるよ!どこにいるの?っていうかなんで!?"

「なんで」で始まり終わっている文章に、思わずそんなの私にも分からないと心の中でツッコミを入れる。『下駄箱に居るけど、黒尾先輩もうそこに居ないよね?』と返信を返すも、自分から先輩を探しに行った方が懸命だと私はスニーカーに履き替えた。きっと最後は、体育館に居るのではないだろうか。そんな当てにならない予想に望みをかけて、私は下駄箱を後にした。

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