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カンパニュラの幸福論 1



※ワルツを君にあげる続編






 狡噛くんと再会したあの日、私は講義の文献集めと提出、またその補佐の外部業務の為にキャリア研修所へ出向いていた。現代において紙のそれらが重宝されることは決して多くないが、やはり何かを教え授けるとされる職種においてはその通説も些か信憑性を欠くようで、とどのつまり未だに紙を良しとする変人達は少なくないという話である。私は彼らと肩を並べるようなキャリアでは無いものの気持ちは汲むことはできるので、そういった意味で司書の傍ら外部の仕事を請け負うようになったの自然な流れだった。幸い今は教育機関では無く研究所の文献書庫で司書をしている為、自分の仕事さえ全う出来ていればとやかく言う程暇な人間も居ないし煙草も吸い放題である。今振り返ってもやはり教育機関という場所は自分には合っていなかったのだろうなと心底思う。さて、問題はあの日。元職場で出会った生徒と再会したことだった。
 
 今思い出しただけでも顔から火が出そうな気分である。自分で言うのもなんだが、まるで小説のようなそれは美しい再会だった。だからこそいたたまれないのだ。私は今でも未練がましくカンパニュラの香水を愛用しているし、彼はその香りで私を認識したようだった。けれどその美しい再会は時間の経過による記憶の美化だ。私が彼にしたことは何一つ事実として変わらないし、だからこそ彼には私なんて忘れて欲しかった。綺麗さっぱり忘れて、彼に正しい幸福を手に入れて欲しかったのだ。しかし狡噛くんは仕事だからと逃げる私を捕まえて、抜かりなくデバイスの連絡先を聞いてきたし、必ず連絡をすると言って私を簡単に離したのだった。あの頃では考えられない聞き分けの良さに、面を食らったとはまさにこのことだと考えた。そしてそれは私の知らない彼だった。やはりあの時期の青年というものは目を見張るような速度で成長するのだ。"男子、三日会わざれば刮目して見よ"なんて、これは誰の故事だったか。

 さて、あの日から2ヶ月が過ぎ何が変わったのか。何がと言われれば何も変わってはいない。ただ必ず連絡すると言った狡噛くんが次の日には連絡をしてきて、食事の約束をした。お互い多忙な為毎週のような頻度では無いが、会う度にちゃんと次の約束を取り付ける手際の良さに私はただ黙って流されるのみだった。そして今は3回目の食事を終え、狡噛くんの車で私の家へと向かっている途中だ。勿論、ただの送迎である。
 助手席から見えるネオンはそのスピードで視界を色とりどりに染め上げ、そしていくつもの花火を見ているかのように艶やかに散っていった。それらを意味もなく眺める間、私達の間に会話は無い。けれどそれは重い沈黙では無くて、むしろそれがお互いにとってしっくりと来るような、否が応でも思い出してしまうあの頃の距離感だ。けれどその距離感に間違いは無い筈なのに、今の私達にはどこか一か所を掛け違えた途端全てが壊れてしまうような、形容しがたい違和感を感じ、私は少なからず困惑していた。
1回目も、2回目も。そして今日だって。狡噛くんと私の会話は互いを知らない数年の近況に始まり、現在の仕事や環境、また共通の趣味である本の話が大半だった。けれど2人が共有していた時間についてはどちらとも言及することは無く、私にはそれが自分にとっての、そして狡噛くんにとっての罪なのか、それとも罰なのかが分からなかった。
 ネオンの流れを眺めるのにも飽きた頃、頭の向きは変えずに横目でちらりと狡噛くんを盗み見る。しかし私が彼の視線に気付かなかっただけで彼は随分前から此方に目を向けていたようで、しっかりと交わった視線に思わず音にもならないような声が短く口の中で発せられた。

「やっと目があったな」
「い、いつから見てたの?」
「名前がこのスピードで見るネオンはまるで花火みたいだな、って呟いた時から」
「言った覚えない、恥ずかしい」
「俺は名前の感性が好きだけどな」
「いつからこの教え子はこんな立派な口を聞くようになったのかしら」
「顔が赤いがネオンのせいか?」
「狡噛くんが可愛くなくなった…」
「俺は昔から可愛くなかっただろ」
「そんなことないよ。あーあー、狡噛くんが可愛かったあの頃に戻りた…いな…?」

私は今も昔も狡噛くんとのこういった意味の無いやり取りが好きだった。けれどやっぱりどことなくこの会話にも違和感がある。その正体は一体なんなのか。自分が素知らぬふりをしていることは分かっていても、それを自覚することはとても怖かった。そして彼の真意を知ってしまうことも。しかし焦燥感に囚われて、しまったと思った時には遅かった。焦った時に余計なことを言うのは私の昔からの悪癖だ。一瞬、けれど確かに狡噛くんの眼光が鋭くなったのを感じて私はぐっと押し黙った。

「名前は、あの頃に戻りたいか?」
「いや、あの、それは」
「俺はもう立場に囚われなくなってせいせいしてるがな」
「あ、えっと」
「今だって名前をどうやって口説こうかってことしか考えてない」

さっきの鋭い眼光が嘘のように、そう口にした狡噛くんは薄っすらと口角を上げて余裕まで見せながらこちらを見つめていた。私はいよいよ言葉を失って、四苦八苦と目が泳ぐばかりだ。それでいて全く悪い気はしていないのだから本当に質が悪い。結局のところ、私は彼に正しい幸福を手に入れて欲しかったなんて正論を並べることで、自分の保身ばかりを考えていた。もしもこの食事になんの意味も無かったら。もしも、これがただの昔を懐かしむ以外の意味を持たなかったら。私は心のどこかでそんなことを考えて、勝手に臆病になっていたのだ。離れていた数年間、彼から貰ったホログラムを大事に飾っていたことも、あれからずっとカンパニュラの香りを纏っていたことも、全て私の意思だった筈なのに。あの頃から立ち止まっていたのは私だけで、狡噛くんはそれでも振り返って手を差し出してくれている。何が自分の幸福かは自分で決めると言った彼が、その幸福を選択した今。自分の意思で私の隣に居てくれているのだ。彼にこれだけ言わせておいて、私は今更一体何を怖がることがあるのだろう。

「…狡噛くん」
「ん?」
「私は、知っての通りいい加減だし、それで、あと結構卑怯だよ。自分のことばっかりだし」
「それから?」
「あ、連絡も無精だし…それから結構、仕事の虫。」
「名前が仕事にプライド持ってやってたのは昔から知ってたさ」
「うん…ありがとう。後ね、すごく臆病」
「それも知ってる」
「でも、今から頑張るから。その、昔の返事、してもいい?」

ー遅くなってごめんね。私も狡噛くんが好き。




 羞恥で言いながら段々と弱くなる語尾と外される視線を、狡噛くんは許してはくれなかった。強引に顎を掬われたかと思うと目を瞑る暇もなく唇を重ねられ、湿った感触が何度もその輪郭を確かめるように私と狡噛くんを繋いだ。時折漏れるどちらとも分からない吐息に反応するように、血液は熱を帯び欠片ほどの思考さえ奪う。段々と余裕が無くなり生理的に溢れる涙を狡噛くんは丁寧に舐めとると、今度は子供をあやすように軽くキスを繰り返して、最後に鼻頭にキスを落とした。それから全部の隙間を埋めるように、狡噛君は私を引き寄せて自分の腕の中にすっぽりと収める。私の首筋に顔をうずめる彼が愛おしくておずおずと腕を伸ばして彼の背に回すと、狡噛くんは短い溜息を一つ吐いてから口を開いた。

「すまない。なんていうかその…止まらなかった」
「あ、いや、恥ずかしいから謝らないで」
「名前がこんな簡単に自分から言うと思ってなくてな」
「え、」
「正直驚いた」
「そんなに?」
「最悪、1年ぐらいはこのまま我慢するつもりで居た」
「それは逆に私のことを馬鹿にしすぎじゃない…?」
「しょうがないだろ。名前は臆病だからな」
「その通りです。ごめんなさい」

そう言って、私達はどちらからともなく笑い合った。あの頃、こんな風に2人で笑い合う姿を想像したことがあっただろうか。準備室でどれだけ穏やかな時間が流れていても、私達はどこかで掛け違い、そしていつも寂しかった。けれど彼は決してこの手を掴むことを諦めないでいてくれた。それがどれだけの幸福なのか、私はきっとまだ分かり始めたばかりなのだろう。だから今日からは、私が彼の幸福であると胸を張れるようになりたい。そしてもう二度と、決して離してなんてやらないのだ。


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