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ワルツを君にあげる 7
俺が次に図書準備室を訪れることになったのは、彼女が退職したという話をクラスメイトから聞いたからだった。直情的に図書室を訪れ準備室の扉の前まで来たところで、俺はそこから進むことを今更ながら躊躇した。あの日から、もうやめようと涙を流した彼女の顔が離れない。もしも退職なんていうのは何かの間違いで、この扉の向こうに彼女が居るのだとしたら、また傷つけてしまうだけなんじゃないか。それはどこかでそうあって欲しいという祈りにも似た願望だった。けれど、そんな都合の良いことは起こらない。視界に入った電子パネルをよく見ると初期化されているようで、部屋自体にもパスワードはかかって居なかった。本当に、彼女はもう此処には居ないのだ。頭の中で反復される言葉に、指先からじわじわと熱が引いていくのが分かる。一歩踏み出すとやはり扉は自動的に開き、俺はその部屋の姿に息を飲んだ。あの花瓶も、コーヒーメーカーも、隠していた灰皿も。どれだけ探しても彼女が居たという痕跡は全て綺麗に無くなっていた。やはりあの時彼女はここから居なくなることを決めていたのだろうか。その違和感に気付いていた筈なのに、最後まで彼女の引いた一線を越えることはできなかったし、結局俺が何を言ったところで彼女とはすれ違っているだけで何も伝わることはなかったのだ。俺は呆然とその事実に浸かるように、ソファに沈み込むことしかできなかった。
それから日東学院を卒業するまで、名前と会うことは無かった。彼女が以前説いたように、新しい司書が入り彼女が居たことを周りが忘れても、穏やかに日々は巡っていったし俺もまた日常を過ごしていった。その日々と同じようにこの感情が一時のもので、ただ緩やかに消えてくれたのならどれだけ楽だっただろうか。結局どれだけ目を背けても、今も俺の中で彼女は色濃くその形を残し続けている。けれど彼女を探すことはしなかった。今探したところで自分の立場が変わらない限り彼女を苦しめるだけだということは理解していたし、それが自分にできる唯一のことだと自分を納得させたかったからだ。やがて3度の四季が過ぎ彼女のいない春を迎えることにも慣れた頃。俺は卒業とともに公安局に入局することとなる。
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入局したとは言っても最初の半年間はキャリア研修所での勤務となる。その為研修所に入ってから3ヶ月が経った今も、実技訓練や座学等、高等教育課程の延長線上のような日々が続いていた。勿論今では自分が公安局員であるという意識が生まれているし、何よりもドミネーターを構えた時の、その先を見据える感覚に未だ慣れないものがあるが。そうした忙しない日々の中で、けれど確かに彼女のことを忘れて居ない自分が居ることに、俺はどこかで安堵していた。
「狡噛君は彼女とか居ないの?」
「なんだ突然」
「ただの世間話よ」
「そこを聞いてる訳じゃない」
「ならそんな怖い顔しないでくれる?あー、片思いとか?」
「そういう話は得意な奴としてくれ」
「つれないわね」
向かい側に座って昼食を取る青柳は、そう言って笑った。隣に座る宜野座に聞いてやれと心の中で悪態をつくものの、本当に言おうものなら融通の利かない返事が返ってくるのは火を見るよりも明らかなので特に言及しない。これ以上面倒なことを聞かれてなるものかと思い早々に昼食を食べ終えると、適当な理由を付けて一人食堂を後にした。
食堂を出た先にある中庭のベンチで、俺はコーヒーを煽り深いため息をつく。ああいった話題が世間話になるのは女性特有なのだろうか。記憶を遡っても、俺とギノの間ではそういった話題は交わされたことが無い。とはいえ学生時代の恋愛と言えば真っ先に思い出すのは彼女のことで、それ以外に何も無かったかといえば嘘になるが、誰かとそういったことを話題にしたことは無かったと今更になって癖のようなものを感じた。その時だった。
「先生、今日の講義の資料アーカイブチェックしてくださいね。私先に講義室向かってますからね!」
突然降ってきた女性の声に、俺は現実に引き戻されて意識を浮上させた。次の講義はそういえば外部の特別講義だったので、その関係者だろうか。カリキュラムには外部講師によるものも多く含まれている為、公安局員でない人物がここに居るのは珍しくない。けれどその声色に、胸を締め付けられるような感覚が生まれる。そして女性がデバイスを切りながら俺の前を横切った瞬間、酷く懐かしい香りが鼻を掠めて俺は無意識に花の名前を口にした。
「カンパニュラ」
一つ噛みあった歯車はその時を待ち侘びていたかのように、記憶の洪水となって溢れ出す。さっきまでの印象は途端に確信に変わった。心地の良い声色も、凛とした横顔も、羽のようなまつ毛も。全て記憶の中にある彼女のそれだった。先ほどの声に振り向いた女性は、俺を視界に入れるや否や心底驚いたように目を見開く。そして俺もまた、きっと同じような表情をしていたのだろう。数年間、記憶だけを頼りに何度も会いたいと願った彼女が、今目の前に立っていたのだから。
「名前」
「こう、がみくん」
何度も会いたいと思った、けれど探しはしなかった。それは勿論彼女の為でもあったし、俺自身が立場を変えない限り傷つけるだけだと知っていたからだ。しかし本当はもう一つ理由があった。もしも俺が彼女を探し出し再会出来たとして、その時に彼女がもうその人生を謳歌していたとしたら。俺のことなんてすっかりと忘れて、前を見つめていたら。そんなことを考えると、堪らなく怖かったのだ。けれど今、視界に映る彼女の涙をもう一度自分の手で掬えるのなら。例えこれが本当に最後でもきっと後悔することは無いだろう。
「久しぶり、狡噛くん」
照れたように少し眉を下げて笑う名前は、記憶の中よりもずっと美しく、そして俺のよく知った彼女だった。
ワルツを君にあげる
200511-0607
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