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ワルツを君にあげる 6



窓の桟に肘を付き紫煙を堪能するなんて贅沢は、思えばこの学校に赴任した頃には当たり前だった。もう誰に遠慮することも無いのだとそれまでの習慣を思い起した私は、またも準備室で煙草を吸い始めるようになっていた。勿論本や部屋にその臭いが付くようなヘマはしないし、吸うのは休憩中等の勤務時間外・一日3本までと妙なルールを後付けして、罪悪感から逃れる為の色相メンテも抜かりない。
今日も今日とてデスク用の椅子を窓際まで持ってきて、ひどくだらしのない恰好で3本目の煙草に火を着ける。時折外を歩いている生徒達の談笑が聞こえたが、ここは3階かつ校舎の隅に追いやられている部屋の為、この紫煙に気づく人物など居ないだろう。煙を思い切り口に含んでから、はぁと声を漏らしてじわじわと外へ吐き出す。驚くほど生産性の無いこの行為で、私の色相は濁るどころかクリアになるのだから世論などとんだお笑い草だ。結局は適正と節度の問題なのである。誰にも届かぬ屁理屈を心の中で雄弁に語りながら、学校の敷地をただ当ても無くぼうっと眺める。時折撫でるような風が気持ち良くて目を細めた時だった。見慣れた黒髪が視界の隅に入るや否や、私はほぼ反射でその煙草を足元の灰皿へ追いやった。それからすぐに自分も窓から離れ外からは見えない場所まで移動する。ばくばくと煩い心臓は随分と自意識過剰だ。あの日から狡噛くんとは一言も話していなかったし、勿論ここにも来なくなった。ただ私の留守の間に何度か本は借りているらしく、その履歴を見るたびに彼から本を取り上げることにならなくて良かったと安堵した。私がこの学校から居なくなるまでどうかもう会うことが無いといい、そう思ったのも束の間。数秒でその願いは叶わないことを知る。

「名前っ」

ばたばたと忙しない足音が聞こえたかと思うと、勢いよく開いた準備室の扉の前にはまさに私が会いませんようにと願っていた男子生徒が1名。まだうるさい心臓をごまかすように、私は理性を総動員させてゆっくりと口角を上げた。

「何かご用ですか?狡噛くん」

会わなければいいと思った矢先にこれだ。あくまで私はこの学校の司書で、彼は生徒だということは承知している。だからもし本来の目的で私を必要とするのなら、その時は何事も無かったように受け入れようと決めていた。けれど私のことを名前で呼び、あまつさえこの部屋に足を踏み入れたということは、彼はそういった線引きをするつもりは毛頭無いらしい。思わずため息が漏れそうになるのを我慢して、私は狡噛くんの返事を待った。

「下から煙が見えた」
「ここにはもう来るな、って言いませんでしたか?」
「名前が煙草吸ってるのも、何回か見えてた」
「勿論、本を借りに来るという意味ではいつでも大歓迎ですけどね」
「俺以外に見つかったらどうするつもりなんだ」
「準備室は生徒立ち入り禁止なので、とりあえず外出ましょうか」

どうやら彼は私の喫煙が原因でここまで来たらしい。大方心配して勢いだけで準備室まで来てしまったのだろう。彼らしいという言葉がしっくりとくる。誠実で、実直で、どうしたって愚かだ。しかし私はそんな彼を優しく受け止める気は無いしもうこれ以上会話をする気も無いので、質問に何一つ受け応えること無く口角を上げたままドアの外を指差した。しかし扉の前に突っ立ったままであった彼は、あろうことか扉のパネルに手を伸ばすと勝手知ったる手つきでパスワードを入力しロックしたのだった。思わず貼り付けていた笑顔が歪む。どうしてこうも彼は私にこだわるのか。湧き上がる苛立ちに今日4本目の煙草に手を伸ばす。しかしライターまでもが味方をしてくれないのか、何度回しても僅かな火花が散るだけだった。

「…狡噛くんはさ、反抗期なの?私はもう来るなって言ったんだよ」
「やっと俺と話す気になったか?」
「勝手に扉ロックしたからでしょ。一体いつの間に」
「いつも無防備に俺の前でパスワードロックしてただろ」
「じゃぁその無防備なパスワードを開けて早く出てってよ」
「こんな話がしたくてここに来たんじゃない。…クビになってもいいのか」
「どういう意味」
「最近のあんたはまるでここを辞めたっていいって、あれはそういう行動だろ」
「どういう行動だったって狡噛くんには関係ない」

だからそんな傷ついたような顔するのやめてよ。その言葉はすんでのところで飲み込んだ。そういう顔をさせているのは紛れも無く私だ。でももう、その一時の感情にほだされて曖昧な関係を続けても、得るものなんて何一つ無いのだ。狡噛くんにとっても、勿論私にとっても。重い沈黙がこの場を支配する。私は狡噛くんと目も合わさなかったし、それに根負けして出て行ってくれることだけを考えていた。けれどその沈黙を破ったのは彼が出て行く音では無く、私の腕を掴んで口にした一言だった。

「全部無かったことにするのが望みなんだってことは分かってる」
「分かってるなら、」
「それでも俺は名前が好きだ」
「分かってて、今それを言うの」
「言わせる気も無いだろうからな。何度だって言ってやる。名前が好き」
「もうやめてよ」
「好きだ」
「やめてってば!」

腕を振り払おうとしても男の力に抗える筈もなく、腕を掴まれたまま“やめて”と子供のように叫ぶ私に狡噛くんはなおも好きだと言葉を降らす。どうしたって私の思い通りにはいかなくて、狡噛くんは自分を酷く傷つけた私をそれでも離す気が無くて。悔しさなのか、悲しさなのか、はたまたこれは愛情なのか。ごちゃごちゃに絡まる感情に耐え切れず溢れ出した涙を見せまいと顔を背けるも、狡噛くんは逃がさないとでも言うように追うようにして逃げ場を無くす。腕を掴んだまま私を壁際に追いやった狡噛くんは唇を近づけたかと思うと、私の眼尻に溜まる涙をゆっくりと舐めとって、それから額に瞼、頬とまるで子供をあやすかのように丁寧にキスを落とした。

「もうやめよう、辛いだけだよ」
「俺は名前と居られないことの方が辛い」
「狡噛くんには未来がある。こんなのは一時の迷いであって、永遠じゃない。今この選択をするよりも、ずっと素敵な未来をシビュラが選んでくれる。それが貴方の正しい未来なんだよ」
「この世界の当たり前を何よりも信じていない名前が、シビュラの神託を俺に説くのか」
「私はただ、正しい選択をして欲しいだけだよ」
「何が自分の幸福かなんて自分で決める」
「こうがみくっ」

最後の言葉は、狡噛くんの唇に飲み込まれて伝えることはできなかった。ただその唇を私は拒否できなかったし、けれど彼の背に腕を伸ばすことも無かった。私達はお互いを見つけることが無く、またどこまでも遠くすれ違っていた。そしてこの日が、私が狡噛くんに会った最後の日となったのだった。

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