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君の祈りになる頃 5
その夜は、眩暈のするような轟音と共にやってきた。食堂でいつものように働いていた私は、余りの音に思わず外に飛び出した。すると町の方から大勢の人達が何かを叫びながら逃げてくる様子がはっきりと見て取れる。店主であるおじさんが裏口から逃げろと声を上げ、私は咄嗟におじさんの言うとおりに店を飛び出した。裏口から繋がる道はいわゆる裏路地で、そこは土地勘のある人間ですら迷うほど狭く入り組んでいる。そしてその道を10キロ程行けばこの町を統治する自警団の陣所があるのだ。おじさんはゲリラ達もそこまでは易々と追っては来れないと考えて裏口と言ったのだろう。私はなんとかしてそこまでの道のりを逃げのびなければいけない。入り組んだ細道を必死に走りながら、考えていたのは狡噛のことだった。彼は今、どこに居るのだろうか。こんなことなら朝もっとよく顔を見ておけば良かった。もっと触れておけば良かった。込み上げてくる涙を必死に拭いながら、ただひたすらもう一度だけ彼に会えることを祈っていた。
*
どのくらい走っただろうか。迷ってはいない筈だが、今だ遠くならない砲弾の爆撃音と人々の悲鳴に段々と恐怖が募る。辺りはもう薄暗く万が一ゲリラと鉢合わせたとして、瞬時に逃げ出せる自信は無かった。不安と疲労で震える足を何とか引きずりながらそれでも走るしか無い。どうかもう一度狡噛に会う為に、強くならなければ。そう思いまた走り出そうとした瞬間、後ろから手を強く引かれて咄嗟に叫び声を上げようとすると、それよりも早く口元を抑えられる。
「名前!俺だ」
今までばくばくと音を立てていた心臓が、安定を取り戻すのが分かる。顔を上げると、そこに居たのは紛れもなく狡噛本人だった。
「会えて良かった。こういう時は無闇に動くな」
「でも、狡噛に会えた…」
「確かに。食堂に言って裏口から逃がしたと言われた時には肝が冷えたが」
狡噛のおどけたような声色に安心したのか、へなへなと力が抜ける。がくっと崩れ落ちる私を狡噛は軽々と抱き留めた。塀に隠れて辺りを警戒する狡噛は、本当にこういった状況に慣れているのだろう。生まれた時からこの国に住む私でも、比べものにならないぐらいどこまでも冷静で的確だ。一体今までどんな経験をしてここまでに至ったのか。知る由も無ければ想像もつかなかった。
辺りを一通り調べて危険は無いと判断したのか、まずは隠れる場所を探すという狡噛に、私は黙って頷く。もう辺りはとっくに暗闇に包まれており、私達は近くにあった民家に身を隠すことにした。
*
「じゃあここを南に行けば、自警団の陣所ってわけか」
「うん、地図でいうとこの辺り。そこまで行けばゲリラ達も容易に手は出せない筈」
一体どこから拝借してきたのだろう、狡噛は地図を私に差し出すと自警団の陣所の位置や今の私達の居場所、そこからの最短ルートをまとめて何か考えているようだった。その瞳は、狡噛と初めて会った時にも見た深い闇の淵を見るようなあの瞳。けれどあの時は気付かなかった、その闇の中に、ぎらぎらと燃えるような感情があることを。それはこの事態に対する昂揚か、どこかこの状況を楽しむような瞳にひんやりと悪寒が走る。きっとこの瞳が、私が最初から狡噛がここには留まらないと感じた理由なのだろう。すぐ隣に居る筈なのにこんなにも遠い。私が堪らなくなって狡噛の服を引っ張ると、異変に気付いたのか狡噛は隣に座っていた私を抱き上げて、後ろから抱きしめるように座らせた。
「今のうちに少しでも寝ておいた方がいい」
「…ねぇ、狡噛」
「なんだ」
「初めて会った日、どうして私を助けてくれたの?」
「なんだ突然」
「今聞きたいの」
狡噛の顔を見たくて振り返ると、その瞳はどこか熱を持って揺れていた。暫く言いあぐねていたが私が折れないのを悟ったのか、ぽつぽつと狡噛はあの日のことを話始める。
「あの日あの状況下で、震えながらそれでも前を向いて立っていたのは名前だけだった。俺はそれを見た時に、美しいと思ったんだ」
「震えて動けないだけの、ただの民間人を?」
「震えて動けなくても、名前だけは前を見据えていた。その姿が全身で生きたいと言っているようだった。だから助けた」
もう勘弁してくれ、そう言って私の首に顔を埋める狡噛が可愛らしくてそっとその頭を撫でる。私の姿が、狡噛にそんな風に見えていたなんて。想像もつかなかった返事になんて答えればいいのか、自分で聞いておいてしどろもどろになってしまう。すると今度は狡噛が口を開いた。
「まぁお前は、助けてもらった恩人を随分と疑っていたみたいだが」
「そっそれはあんな状況慣れてる人が突然現れたら、誰だって疑うでしょう?」
「戦場で上手く生き残るタイプだな名前は」
「全然褒められてる気がしないんだけど…」
顔を上げて意地悪く笑う狡噛に、今度はこちらが恥ずかしくなる番だった。狡噛と出会って一か月。たったそれだけの時間なのに、出会ったのが随分と前のようだ。けれどきっと今日が最後。それを感じても、依然喧嘩した時よりも随分と心は穏やかなままだった。
「狡噛、今日が終わって私を送り届けたら行くんでしょう」
「…ああ。そうしようと思ってる」
「そっか。なんとなく、そんな気がしたの」
すっと伸びている狡噛の手に自分のを添えると、じんわりと熱が広がって心が揺れる。分かっていても本人の口から聞くと、やはり頭を強く殴られたような衝撃に思わず手が震えた。それを誤魔化すようにぎゅっと握ると、狡噛は答えるように私の首筋に唇を寄せる。まるで愛されているみたいだ。優しくゆっくりとそのキスが頬に届くと、零れた涙を掬うように舐められて、思わず湿った息が漏れた。
「最後の夜に、なんて最低な男だわ」
「……後悔しないか?」
後悔。するのなら、出会ったことにしたかった。
問いに返事をするように、私から狡噛にキスを送る。それが合図だというかのように静かに反転していく視界の中で、私は世界の幸福を手に入れた気分だった。
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