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君の祈りになる頃 1



*シャンバラフロート〜Case3の間のお話







もう何十年も前に政治も経済も回らなくなり権力者たちが見捨てたこの国は、所謂自警団がその統治をしていた。当初あったのは崇高なイデオロギー。貧しさに泣き、膝をつくことの無い世界。そんな耳障りの良い言葉は、貧困に耐えるこの国の人々の確かに希望であり夢だった。しかし権力は人を惑わせる。結局この国が平和だったのは私が生まれて間もない間だけだった。物心つくころには父が戦争で死んだ。二十歳を超える頃には母が貧困で死んだ。そうやって、また何度も何度も繰り返す。ここ数年は再度反勢力が武器を取り、人を殺しながらいつか耳にした反吐が出るような夢を語り出した。そしてそんな世界から這い出すことは決してできない。この国に何を奪われたとしても、ただ拳を握ってその様を見ていることしか出来ない。それが私の現実だった。



日差しが心地よく頬を撫でる、そんな日だった。この国は雨が多く晴天と呼ばれるような日は滅多に無い。こんな日は出掛けたくなるものだ。けれどそう思ったのが間違いだった。買い出しをする為にバスを乗り継いで街へ出かけた最中ゲリラとの抗争に鉢合わせした私は、恐怖でそこから動くことさえできずに居た。砲撃によって砕け散る建物に、泣き叫び逃げ惑う人々。銃を持って粛々と人を殺す奴ら。次々と人が倒れてゆく様をただ見つめながら、もしここで諦めれば、終わらせられれば楽になれるのでは無いか、と。そう思った。けれど神様はまだ私を生かす気らしい。突如として現れたのは体格のいい日本人の男だった。震える私の腕を乱暴に掴むと“前だけ見て走れ”そう言ってゲリラ達の包囲をかい潜り、森を抜けてどこまでも走り続けた。砲撃の音も泣き叫ぶ人々の咆哮も消えた頃には、辺りはすっかり夜になっていた。


「ここまで来れば大丈夫だろ。よく頑張ったな」そう言って私の頭を撫でるその仕草は昔死んだ誰かに似ていて、居心地が悪い。私が口を開かないことを不思議に思ったのか、怪我は無いかと心配そうな素振りでこちらを見る。ぶっきらぼうに大丈夫と返すと、なら良かったとだけ男は言って、煙草を咥えた。

「君はあの街の住人か?」
「いえ…もう少し、遠い街です」
「それなら、今からじゃ帰れないな」
「別に構いません。心配する人もいないので」
「そうか」

続かない会話。煙草の煙だけがこの中では自由なようだ。そういえばお礼も言えていなかったが、そもそも何者なのだろう。あの最中、自分だけが逃げ出すのも難しいだろうに、あまつさえ恐怖で動けない私の手を引いて逃げる余裕なんて想像もつかない。そもそもこんな名前だけの国といっても過言ではない無法地帯のような場所に外国人だなんて。ああいった場面には慣れているようだし、この男も昼間のような奴らと同じ部類の人間であっても不思議では無い。そう思うと、私は礼ですら言いあぐねていた。

「俺が何者か、そりゃ警戒もするよな」
「っえ」
「怪しい奴なんじゃないかって顔に書いてあるぞ」

自分ではそんなつもりは無かったのに、私は一応命の恩人にそこまで分かりやすく警戒していたのか。集まる熱に思わず顔を隠すと、いよいよ男は笑うのを堪えるように咳払いをしてから、うっすらと口角を上げた。

「俺は狡噛慎也。見ての通り日本人で、この国に入ったのは4日前。旅をしているだけでゲリラとは無関係だ。一通り身を守る術を知ってはいるがな」
「……私は、名前。どうしてわざわざこんな国に?」
「あてのない旅だ。どこへ行くにも特別な意味は無い」
「わざわざ来たんじゃ無いのなら、こんな地獄からはさっさと出た方がいいわ。さっきの見たでしょう?」
「まぁ確かに、この国は天国では無いな。でも地獄という意味では世の中どこも似たようなものだろ」
「日本以外は、の間違いじゃない?シビュラという天国があるって聞いたことがあるもの」
「…それが天国であると思う奴には、天国なんだろう。さっきのようなゲリラどもから言えば、この国だって何をやっても許される天国かもしれないだろ」
「ふぅん、どっちに転んでも最低な奴らね」

一瞬。シビュラという天国にも形容されるそれを口に出した時、言葉に詰まった男の瞳はまるで深い闇の淵を見るようで。とても祖国を語る瞳では無かった。どうしてかなんて、先ほど会ったばかりの男の心情は全く理解できなかったが、私はなぜかその瞳の意味を知りたいと思ったのと同時に、それ以上踏み込んではいけないことを知っていた。

「そろそろ行こう。少しでも早く帰れる方がいい」
「…あの」
「ん?」
「助けてくれて、ありがとう」
「どういたしまして」

男の顔を見上げると、先ほどの瞳は気のせいだったのかと思う程に静かな笑みを浮かべていた。狡噛慎也。その男の名前を生涯忘れることが無いということを、私はまだ知らない。

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