book | ナノ
僕が旅に持っていくのは
きみにまつわる辞書とあったかいココア
きみがいつも、眉を少し下げて笑うこと。それに気づいていないふりをして一緒に笑うこと。なんにも悪いことじゃないのに、どうしてこんなにも寂しいのだろう。
「嶺ちゃんの車のボンネットは、いつもよしよししたくなるねえ」
「できれば車よりも僕をよしよししてくれると嬉しいんだけど」
まるみのあるフォルムは彼女のお気に入りで、久しぶりに乗ったこいつに彼女はいつもよりご機嫌なようだった。ずっと前から約束をしていたドライブはあいにくの雨で、それでも海に行くと言い張る彼女に折れたのは午後を少しすぎた頃。こんな日に海に行こうなんて奇特な人間はあんまり居ないらしく、先ほどからすれ違う車もいない。それはとても静かな風景だった。そんな風景に色を添えるのは、ひっきりなしに動くワイパーと・窓の外を眺めてはそれを嬉しそうに僕に伝える彼女の音色。視界に入るものを口にだすのはむかしから直らない彼女の癖。
ねぇねぇ嶺ちゃん、あの看板の色がとってもへんてこなの。へんてこ?どんな色?うーんとねぇ、嶺ちゃんのマラカスみたいな色。え、どゆこと。嶺ちゃん泣くよ?えー、泣いちゃだめだよ。嶺ちゃんは泣き虫だから困ります!
くすくすと笑うきみの声と、僕の情けない声。いつもと、むかしから、ずっとずっと同じ空気。変わるのは季節だけだと思ってた。
「うーん、雨止まないね」
「そうだねえ。どうする?降りる?」
「ううん。このままでいいよ」
結局海に着いたのはもう日が落ちかけた頃。止むそぶりを見せない雨を仰ぎながら、彼女の瞳は何をみつめていたのだろう。何を求めているんだろう。ぼんやりと同じ雨を眺めていたと思うと、いつの間にか彼女の視線は僕をしっかりととらえていた。
「嶺ちゃん。お仕事、楽しい?」
「君の言葉はいつも唐突だねえ」
「ねぇ、楽しい?」
「うん。最近は1人の仕事だけじゃなくて、ユニットもあるしね。充実してる」
「そっかあ」
「どうしたの突然」
「楽しくなかったら、嶺ちゃん奪っちゃおうと思ったの」
そう言ってちょっとだけ眉を下げて笑った彼女は、まばたきをすれば元通り。いつもと変わらないやさしい空気。これが僕の世界のすべて。なんにも悪いことなんてない。
「よおし、帰ろう」
「もういいの?」
「あ、その前に、飲み物買おう」
「僕の話聞いてる?」
「嶺ちゃんには、うんと甘いココアね」
僕が返事をするよりも早く、雨粒の中を彼女は傘もささずに駆けて行った。
きみがいつも眉を少し下げて笑うこと。ずうっと前から僕は気づいているんだ。でもね、僕は泣き虫だから。今はまだそんなきみの後ろ姿を焼き付けて、それから、待っててって言わせて。
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