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いのりの庭



合鍵を渡したのはいつのころだったか。


”これで藍ちゃんが留守のとき、たくさんいらずらできちゃうね”なんて子供のような顔をした彼女を今も鮮明に記憶している。次に会った時にはおそろいの星型のキーホルダーを渡されて、”なんだかねぇ、これを見てると誇らしい気持ちになるの”とほころんだ顔に柄にもなく照れたことも、全部僕には昨日のことのように思い出せた。けれど結局、彼女はその鍵を今日まで一度も使うことはない。それがどうしてかなんて彼女にわざわざ聞くことはしなかったし、僕は鍵を見て嬉しそうに目を細める彼女の表情だけで随分と満足していたから、そこに隠れた痛みには見ないふりをして瞼を閉じた。



エレベーターの灯りが随分と明るく感じるような時間、僕の足音はコンクリートによく響いた。ようやく帰ってきた我が家に少し安堵のようなものを感じて、玄関の鍵を回す。いつものように廊下の電気をつけようとスイッチに手をかけると、小さな違和感がそれを制止した。玄関には見慣れたエナメルのパンプスが一足。これが誰のものかなんていうのは考えなくったって分かるから、鼓動はだんだんと速くなる。廊下の先を見ると、暗闇の中に無機質なソファと小さな背中が見えた。


「きてたの…」


口からこぼれおちた言葉は、彼女に向けたというより自分にその事実を言い聞かせているようだった。起こさないようにできるだけ静かに靴を脱ぐと、急く気持ちを抑えて彼女に近づいた。少し乱れた髪に、深い呼吸。寝苦しいのか額には汗がにじんでいた。前髪を指先で流すと、くすぐったそうに身をよじる。からだいっぱいに感じる充足感に戸惑いながら、ずっとこの顔を見つめていたいとおもった。きっとこれがいとしいという感情なんだろう。思い出してみれば彼女と出会ってから、いつだって自分には容量を超えた気持ちの波に随分と苦労したものだ。それはしあわせと呼ばれるものだったり、嫉妬や不安といったものだったり、それが本当かどうかは分からなかったけれどそう呼ばれるものならいいと思いながら彼女を見つめてきた。だから時々、僕は自分を忘れそうになる。このからっぽの器じゃ、受け入れられるものなんてたかが知れているということを。


「きみはこの鍵に、どんな意味をかんじてたのかな」


ソファに背を預けて前を見ると、ローテーブルには彼女とおそろいの鍵。あの日と同じように星型のキーホルダーがついていた。少し汚れたそれを見て笑いたいのか泣きたいのか分からなくなる。きっと僕は、自分にとって彼女がどれだけ大切な存在なのかを、彼女にとって僕はどんな存在なのかを見つけることが怖いんだ。だからいつも、肝心なところには触れずに優しいふりをする。今だって、僕はあの鍵の重さを知るのが怖くてたまらない。そこまで思考を巡らせて、思わず掌で顔を隠す。深いため息を吐きだすと聞きなれた声と一緒にやさしい感触が肩越しに降った。


「藍ちゃん、おかえり」


うしろから抱き締められて、その居心地の良さに彼女を感じた。顔を見ようにも力無い腕はそれを許そうとはしていないようで、「そのままじっとしてて、」と耳元でかすれた声を囁く彼女は確かに彼女でしかないのに、どこか知らない人のようだった。


「はじめて、その鍵使っちゃった」
「うん、知ってるよ」


その鍵、という言葉にこころが少し痛んだ。今日使ったことよりも、どうして今まで使わなかったのかの方が気になるなんて、でもそれは彼女をとても傷つけてしまう言葉のような気がして、僕はつまらない事実しか口に出せなかった。


「怒ってる?」
「…なぜ?」
「そんな気がしたの」
「怒ってなんかないよ」
「そっかぁ…」
「今日も変だね君は」
「藍ちゃんは今日も毒舌だね」


ふふ・と漏れる声に、伏し目がちで笑う彼女の顔を頭の中で想像した。顔が見えないことがこんなにも不安になるだなんて、僕は今初めて知ったよ。どうして、怒ってるなんて聞くの。きっと彼女は僕のこの痛みに気づいてる。それは確信だった。


「顔が見たい」


そう言って僕は彼女が返事をする前に、そっと彼女の腕を解いて後ろを振りむいた。そこには予想していた彼女は無くて、静かに頬を伝う涙に僕は息をのんだ。


「待ってって、言いたかったのに」
「ごめん」
「違うの。私も、不安だったんだよ」


”藍ちゃんにとって、その鍵はどんな意味を持つの”押し殺すように囁いた言葉は、先ほど不用意に呟いてしまった僕のそれだった。けれどその痛みは僕よりもずっと鮮明で頼りなくて、消えてしまいそうな肩を見て思わず彼女を自分の胸に引き寄せる。僕が感じていた痛みが自分だけのものじゃないことが嬉しくて、けれど彼女の涙は何よりも悲しくて、どんなに手を伸ばしても届かないものを手に入れたくて、おろかなのは望んだ僕なのか・望ませた”人”なのか。


「僕は、君をきっと求めすぎてる」
「そんなことないよ」
「でもだから今君を泣かせてる」
「ちがうの、ちがう。だって私はあの鍵を貰った時、ほんとうに誇らしくって、嬉しくって、今のなんばいも泣いてしまったんだから」


私たちしあわせすぎて、遠回りをしちゃっただけね。
泣きながら笑って、こころの底からうれしそうにほほ笑む彼女に、自分のからっぽとそれを満たしていくしあわせをかみしめた。僕がからっぽでも君がそれを満たしてくれるのなら、僕は他に何も望みはしないから。だからこの不安も悲しみも、すべて君の為にあればいいと。もう一度彼女を抱きしめて、僕は生まれてはじめてかみさまに願いごとをした。

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