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闇をゆらす夜汽車



バスタブに波打つ水面は、ゆらゆらと私の影を映していた。
手のひらをそっと動かすと、ひんやりとした温度が体温をからめとるように溶かす。

「つめたい」

日はまだ登る前だった。朝焼けには遠い、真夜中とも違う、宙ぶらりんなこの時間はまるで私を一人取り残すかのように静まりかえっていた。ひとつひとつの動作が狭いバスルームの中で反響する。ちゃぷん、ちゃぷん。水面をかき混ぜる手のひらが冷たさで痛み出しても、私は動きを止めることはなかった。そっと目を閉じてみると、瞼の裏側には見覚えのある背中。これはケンくんのだ。私は時折こうやって彼の背中を見てはそこに手を伸ばして、触れられない意味を思う。それはとてももどかしく、空しい行為。こういう時想像していたのは、汽笛の音ともう会えない誰か、そんな陳腐な光景だった。どんなに手を伸ばしたところで届かない。そんな感覚は私を少しずつ蝕んでいくようだ。


「何やってんの」


突然の声に肩は小さく揺れた。目を開けて、先ほどの視界とは違う視野にほっとする。呆けていた私の二の腕を掴んだのは、あたたかな指先だった。

「今日は、おそかったね」
「先に寝ててよかったのに」
「ケンくんを待ってたわけじゃあ無いの」
「あっそう」
「可愛くないね」
「どっちが」
「だって、前は可愛かったのに」
「いつの話してんの」
「高校生のころは、ずいぶんと可愛らしかったよ」

強制的にバスルームからリビングへ送還された私は、ケンくんが不機嫌になるのを楽しむかのようにいくつかの無駄口を放り投げた。じわじわと凍っていくような空気の中で、わざとソファに座るケンくんによりかかるようにして腰を下ろす。私よりさらさらとした髪が揺れた。きもちがいい。

瞼の裏に彼の背が住み着くようになったのはいつからだったのか。今となっては思い出せないぐらいに小さく小さく根付いてしまったこころに、私は辟易とするほかなかった。少し年下の彼は、出会ったころは今よりもずっとずっと可愛くて、浅はかで、傷つきやすかったのに。近頃といえば私よりもずっと私の考えていることを見透かして、誰も傷つかない方法でそっと手を差し伸べる術を覚えてしまったのだ。


ああほら、たとえば今彼が持っているその袋だって。

「これ」
「なぁに」
「どうせ寝てないだろうと思ったから」
「こんな時間に、太っちゃうや」
「可愛くねぇ」

無造作に渡されたそれには、私の大好物であるコンビニのシュークリームが2つ入っていた。手のひらに熱が灯る。ずっと一緒に居たはずなのに、本当に彼は色々な術を覚えてしまった。私のちっぽけな寂しさもプライドもさっきの水面に溶けてしまえばいいのに、あたたかな熱と共にちくちくとこころが痛むことが悲しくてたまらないのだ。

「ねぇケンくん。ちゃんと私を待っててね」

かすれた声が空気を揺らした。返事の代わりに与えられたぬくもりに安堵して、私はそっと瞼を閉じる。カーテンの向こう側では、闇が静かに漂っていた。



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