可視光線

百日紅の花が咲き誇っていた。白い花も紅い花もその房、ひとつひとつが細い枝をしならす程に。近くに寄ればふわりとかすかに甘い香りが漂う。私はそれを横目にわざと敷き詰められた玉砂利を踏みしめた。その音に濡れ縁の上の白藍が微かに揺れる。

「だれ?」

 嗚呼、と私は息を吐いた。この優雅で清浄な空間を血に染めるのはあまり気が乗らない、そう思っていたからだ。手にした苦無を懐に仕舞う。

「曲者、だよ」

 囁くような私の言葉に目の前の娘がゆっくりと瞳を瞬かせた。その漆黒の球体は私の姿を映せどもそれは只の反射に過ぎず、虚空を見つめている。

「くせもの?」

 小首を傾げて柔らかそうな唇からこぼれる声はまるで鈴の音ようで愛らしい。私は「私の顔」を歪ませてそっと彼女の隣りに腰掛けた。

「貴方、夕べも来た人?そうでしょう?外の匂いがするもの」

 そうぱちんと嬉しそうに両の手を胸の前で合わせて笑う。そのふっくらとした白い頬にえくぼが浮かんだ。

「正解。具合はもう随分と良さそうだ」
「いつものことだもの。熱なんてすぐに下がるわ」

 ねえ、それより貴方はだれなの、繰り返された言葉に苦笑が浮かぶ。昨晩、この屋敷に忍び込み月明かりに素顔を晒した挙げ句、大捕物を演じた自分にそう問うのは無知故かそれとも姫君というのは誰もがこの子のように浮世離れした空気を纏っているのだろうか。

「私が誰なのか私にも良くわからないんだ」
「どうして?」
「自分で言うのも何だけれど私は変装の達人でね。他人の顔を借り、人真似ばかりしている内に自分はどういう人間だったのだろう、何を思ってどう生きてきたのかさっぱりわからなくなるーー」
 
 鉢屋三郎としての自分がね、という台詞は心の内に留めた。今、己がどんな顔をしているのかさえも分からない。彼女に尋ねてみてもそれは意味のないこと、そう自嘲を浮かべた時だった。さらり、絹のような滑らかな髪が揺れ頬にひんやりとした指先が触れる。私の前髪を眉を瞼を鼻を頬をそして最後に唇をなぞって彼女が満足したように微笑んだ。

「とても素敵な御顔ね。端正で繊細で、意思が強いわ。でも、どうしてそんなに悲しそうなの?」
「私が、悲しそう?」
「ええ、雨が降る前の空気の様。枝がはらはらと葉を散らす音の様」

 思わず肩が震えた。口元には笑みが嗤いが張り付いたままだ。それなのに何故。

「貴方が笑ったらきっとすごく素敵」

 頬に睫毛の影を落としながら紡がれた言葉がゆっくりと私の周りを漂う。何時からだろう、笑えなくなったのは。学園を卒業してからか、初めてこの手で人を殺めた時からかそれはもうわからない。それに、と瞼を閉じる。もう私の素顔を知る者は居なくなってしまった、永遠に。

「悲しいとしたら、もう誰もこの顔を覚えている者が居ないからかもしれないな」

 そっと白く細い手から逃れるように立ち上がる。

「ねえ、曲者さん。そこに百日紅の花が咲いているでしょう」

 言葉のままに視線を上げなくとも分かる。つい先程目にしたばかりだ。彼女は反応の無い私に構わず言葉を続ける。

「花の花弁ひとつひとつは小さいけれど房になって咲くそれは縮緬みたいでとても綺麗なの」

 確かに細かな花弁が重なり合い、落とされた影がくしゃりと縮れて見える。

「私にだって見ることは出来るのよ」

 だからーー

「貴方の顔は私がずっと覚えているから」

 振り返った先で笑顔を浮かべているはずの彼女の姿が滲んだ。

「姫君、貴女の名を聞かせてくれないか」

 声は震えなかった代わりに酷く掠れた。

「名前よ、曲者さん」

 体温よりも少し低い温度の水が頬を伝う。まったく情けないにも程がある。それでも君は覚えていてくれるんだろうか、私みたいなちっぽけな男のことを。

「私の名は曲者じゃないよ」

 名乗った私に君は嬉しそうに瞳を細めてやっぱり素敵な笑顔だわ、とそのかんばせを綻ばせた。


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