赤い策略に嵌まって目眩

※明治政府パロ





「名前お嬢様、朗報です!」





と、女中は朗らかに言ったが、その"朗報"は朗報とは似ても似つかぬ代物であった。





「瞳子姉様!馬車の手配を!」


"朗報"の内容を聞いた瞬間に私は叫んでいた。
恐らく、情報が脳に伝わる前だろう。
これが人間の反射作用というものなのかと今になって思い知った。


「名前、そんなに慌ててどうかしたの?」


「姉様もお聞きになったでしょう!奴が、奴が帰ってきたのです!」


私は鬼気迫る勢いで、いかに奴の帰還が私の精神状態に悪影響を及ぼすか、という事が理解されるようお伝えしたのだが、そんな私の努力を簡単に無下にした瞳子姉様は「そうね、宴の準備をしなくてはね」と穏やかに仰るだけだった。





吉良ヒロトは、私の義兄である。
私と瞳子姉様は吉良家の血を正しく引く純血だが、吉良ヒロトは違う。
奴は前姓を基山といって、数十年前……ヒロトお兄様がお隠れになってすぐに父様が引き取った養子だ。

それだけならまだ良い、確かに最初はヒロトお兄様の代替品のようにやってきた奴を気味悪く思ったりもしたが、私も成長したのだろう、奴が真面目で優しい人間なのだということが分かったからだ。

しかし、事はそれで収束しなかった。

奴はあろうことか、私の精神が肉体と共に成長するにつれて、私を義妹ではなく女と見なし始めたのだ。



奴はあれでも貴族院議員であるし、銀座の大地主でもあるし、買収した東京日日新聞の社長でもあるから暇人ではない。
それで普段は吉良屋敷には帰らずに、銀座に保有している屋敷に住み着いているらしい。

それで私は非常に助かっていたのだが、何と奴が久方ぶりに職務に一段落がつき、屋敷に帰ってくるという。

これはまずい、一刻も早く春奈さんのお屋敷に匿ってもらうことにしよう。


「誰か!今すぐに馬車を手配して―…」



「馬車?出掛けるのかい?名前。」


ぞくり、と寒気がした。
この偽善染みた声を私が聞き間違うはずがない、奴だ……!
今、まさに、私の背後に……!



「久方ぶりだね、オレの可愛い名前。」


「ご無沙汰しておりましたわ。」

「ねぇ、名前?」

「どうかなさいまして?」

「どうしてオレに背を向けているんだい?そろそろ可愛い顔を見せて欲しいな。」


ギギギギギ、とまるで錆ついたサーベルを無理に鞘から引き抜いた時のような音を(精神的に)させてくるりと後ろを振り向いた。


そこには穏やかな微笑をたたえた奴がー……あぁ、もうダメだわ!



「あぁ名前、いつ見ても君は愛らしいーあぁそうだ、父さんにも相談したんだけどね、名前をオレの屋敷に引き取ろうと思ってるんだ。いくら馬車とはいえ、君も吉良屋敷から女学校まで通うのも大変だろうし。」


聞いた瞬間、全身から血の気が引き、冷や汗が流れるのを感じた。
よくもまぁヌケヌケと!
と叫びたいのが私の本心であるが、いつの間にやら現れた父様が「是非そうなさい、名前。」と穏やかな声で仰るものだから反論のしようもない。
奴は父様と姉様のお気に入りだから、大抵の奴の我儘は通ってしまうのだ。
ここで私が反論に出たとしても、二人とも奴に丸め込まれてしまうに違いない。



「さぁ、おいで……名前。」


ニヤリとでもいえばいいのか、大変厭らしい笑みを浮かべた奴が手を差し伸べる。
いやだ、私は、私は……!


「名前お嬢様!馬車の手配ができましたー……ッきゃあ!」


「え、わっ!」


「名前!」




運が悪かった。
そうとしか言いようがない。



私が「馬車の手配を!」と喧しく騒ぎ立てたのを聞いていたのだろう、心優しい女中の1人が馬車を屋敷に手配していたのだ。
そこで彼女は私を呼びにきてくれたわけだがー……彼女は、ほんの少しそそっかしい質であった。

あまりに長いスカートを誤って自分で踏みつけてしまい、体制を崩して勢い余って私を投げ飛ばしてしまった−しかし投げ飛ばされた私はよりにもよって奴に捕獲された−事のあらましはこうである。



「危なかったね、大丈夫かい?名前。」


「はい……」


「申し訳ありません!名前お嬢様!!」



瞳に涙を溜めて謝る彼女をどうして責められようか、
例え私が奴にぎゅうときつく抱き締められる、という地獄を味わう原因となったとはいえ、私には彼女を責めることなどできない。



「ありがとうございましたわ……ヒロト義兄様。」



とにもかくにも、奴の腕の中から抜け出すのが最優先だ。
そこでとりあえずは礼を述べ、"もう離してくれないか"という意思を言外に伝えたつもりであったが、そこは流石ヒロト義兄様というべきか、そう簡単にはいかなかった。



「義兄様?いけない子だね、『ヒロト様』だろう?」


抱き締められたまま、またもやニヤリと怪しげな微笑を贈られ、私は危うく涙が出るところであった。
しかしそれ以上に、「そうよ、将来添い遂げる殿方に向かって『義兄様』だなんて」と何事も無かったかのように言い切る瞳子姉様の一言が一番胸に突き刺さったのは、言うまでもない。





基山=伊東巳代治
明治というより大正の方が時代設定には合うかも。



[ 7/19 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -