マルキ・ド・サドの馬車

「ねぇ、オレ以前も君に言わなかった?オレに書類を提出する時は誰が取引先に持参したのかメモをつけろって。」




ヒロトの厳しい言葉を聞きながら、私は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
ただただ俯くしかできず、ぎゅうと自分の手を握りしめる。
怖くて前を向けない。



「君、本当に馬鹿だね。おんなじこと何回言わせるの?そろそろ覚えてもらわなきゃ困るんだけど。」


「はい…申し訳ありません…。」


「あまり公私混同はしたくないんだけど、君は昔からそうだよ。学生の頃から何も変わってない。馬鹿で間抜けで忘れっぽい。よくそれでうちに就職なんてできたよね?。」


「う…」



そうなのだ。
私がかの大企業、吉良グループに幹部クラスで就職できたのは他ならぬヒロトとのコネクションのお蔭なのである。
彼の言う通り、昔から馬鹿で間抜けで忘れっぽかった私がまともな大学に入れるはずもなく、よく某巨大掲示板で名前を見かけるFランク大学というやつにしか入学することができなかった。
まぁ、それでも瞳子姉さんや父さんは「なんとか大学生になれて良かった」と泣いて喜んでくれたが。


光陰矢の如しとはよく言ったもので、ダラダラとしている内にずるずると月日は立ち、私も遂に学生と名乗れなくなる歳になってしまった。
勿論、まともに私を雇う企業などあるはずがない。
なんと言っても、あのFランク大学出身者だ。仕事ができるはずもない。
こうして学歴社会の波にのまれ、どうしようか途方に暮れていた私を拾ってくれたのがヒロトである。
彼は一流大学を卒業し、それと同時に吉良グループの後継者となることが決定していた為、どうしようもないこの私を、自身の側近の1人として雇ってくれた。
「君は確かに馬鹿でクズでどうしようもない。でも側近はなるべく昔からの知り合いの方が気が楽だからね。仕方ないから雇ってあげる。」彼が私に言い放った手厳しくも友愛に満ちたあの言葉に私は涙した。二重の意味で。


そうこうしている内に私もヒロトも社会人一年目を終了し、現在二年目。
と言ってもヒロトは代表取締役なのであまり意識していないのかもしれないが…。



「ちょっと、聞いてるの?」

「は、はい!」


思考の海を漂っていた私を不機嫌を体現したかのようなヒロトの鋭い一声が襲う。
俯いていた顔を一瞬のうちに上げれば、ヒロトはイライラとデスクに指を一定のリズムで振り下ろしていた。
まずい、と咄嗟に感じる。完全にヒロトの機嫌を損ねてしまったらしい。



「あのさぁ…君ほんとうにどうしてくれるの?」


「も、申し訳ありません…」


「昨年度と比べて企業成績が落ちなかったから良かったものの…君のミスをフォローしているのは誰だか知ってるかい?オレだよ?」


「申し訳ありません!」


ここでまた盛大なため息。
「あのさぁ…」とジト目で見据えられて、身動ぎすらもできなくなる。
昔から機嫌の悪い時のヒロトは苦手だった。
何を仕掛けてくるか分からない狂気染みた雰囲気に射殺されてしまいそうな視線。
どうにも身が竦んでしまう。
そんな私の煮え切らない態度に彼は更に苛つくのだから悪循環にもほどがある。


「君、その歳にもなって上司に詫びる言葉は『申し訳ありません』しか知らないのかい?さすが昔から馬鹿で通ってるだけあるね。」


ひどく高圧的な態度でせせら笑うヒロト。
思わずまた俯いてしまった。
情けなく震える脚、早く逃げ出してしまいたいけれど、助けは来ない。
リュウジは取引先に出掛けているし、玲名は休暇をとっている。

わたしとヒロトの、ふたりきり。



「すぐに俯く癖も相変わらずだ。」


「……。」


「顔、上げて」



そろり、と顔を上げようと努力はしたが、ちらりとヒロトの赤い髪が見えると萎縮して首が縮こまってしまう。
どうにも怖くて動けなかった。



「顔上げろって言っただろ。」



ふいに冷たい声が降ってきて、グイっと無理に顎を掴まれヒロトと視線を合わせさせられる。
デスク越しのヒロトは、意地の悪い加虐的な笑みを浮かべていた。
ヒロトのこんな表情、きっと私以外は見たこともないだろうし、想像もつかないだろう。
彼は私にしかこんなことをしないのだから。
穏やかなヒロト、優しいヒロト。
私にはそちらの表のヒロトの方がなんだか信じられないのだけど。



「あれ、泣いてないんだ?」


ニタニタと嫌な笑いを浮かべていても顔が整っている人間は狡い。
貶しようがないのだから。



「名前のことだから、とっくに泣いてるのかと思ってたよ…君、声を押し殺して泣くの得意だもんね。」


昔から、泣いていることが周りにバレることが嫌だった。
それは私のちっぽけなプライド云々の問題ではなくて、泣いていたって「ヒロトに意地悪された」と原因を端的に述べても誰も信じてくれなかったからである。
それならいっそ、と部屋に籠って声を上げずに泣いていた。いつしかそれが癖になった。


「面白くないな…」


心底つまらなさそうにヒロトが呟くもんだから、私は更に身を固くした。
何か、仕掛けてくる。
このまま済まされる訳がない。
私が泣くまでこの人は精神を抉ってくる。


ぐっと身構えた時、ふいにヒロトが立ち上がり、何やら文字の並んだ紙切れを持ってきた。
それを私の目の前でひらひらさせる。
今まではヒロトは座っていたから良かったものの、こうして私の目の前で立たれては更に萎縮してしまう。
中学生の頃はそうでもなかったが、大人になったヒロトはずいぶんと背が高い。
私を見下ろすその目がとてつもない威圧感を纏っているので、苦手だ。



「ほら名前、これが何だか分かるかい?」



分からないので、ただ首を横に振るしかなかった。
しかしヒロトはそんなことは気にも留めずに楽しそうに胸ポケットの万年筆へ手を伸ばす。


「解雇通知だよ、君の。」


「!」


「解雇って、分かる?クビってことだよ。俺がこの欄にサインすれば完成。」



解雇通…クビ…!?
私が言葉も出せずに愕然としている間にヒロトはさらさらと通知書に名前を書きつけている。
はっ!とした時には、何も考えずに叫んでいた。


「いや……っ!」



咄嗟に口元へ手をやってももう遅い。
ヒロトは楽しげに口角をあげ、くいっと私の顎をその優雅な指で持ち上げた。
ガラスの奥の翠とまともに視線がかちあう。



「へぇ…嫌?どうして?」


「ど、どうして、って…」



何故だか、私にも分からないのだ。
あの短時間では生活に困るとか、私みたいな低学歴のリストラ人間を雇ってくれる再就職先などないだとか、そんなことは1ミクロンも思いつかなくて、ただただ「ヒロトと離れたくない」と私の小さな心は叫んだのだった。
だから、「どうして」だなんて聞かれても…



「生活のため?…哀しいなぁ、名前は俺のこと、飯種としか思ってなかったのか…」


「ち、違っ…!」



「じゃあ、教えてよ」



ふっと吐息を混じらせながら耳にねじ込んで来るその言葉が辛い。
言えるはずなど、ないのに。


ぺろりと首筋を舐められたかと思えば、次の瞬間にはガリ、という音が小さな鋭い痛みと共に私を襲う。何かが肌に滲んだようだ。



「待たされるのは好きじゃないって、言ったことあるはずだけど。」


機嫌の悪そうな声に急かされるが、やはり出来の悪い私の頭では言いたいこと、言えと命じられていることがまとまらない。
首筋を滑るヒロトの唇がより狂気的に這いずり出したのを感じ、焦りからか恐怖からか、目元には冷たいものが滲んだ。



「…相変わらず馬鹿。頭の回転が遅いよ、間抜け。」


辛辣な言葉と共に降ってきたのは、噛みつかれたような痛みと、すべて飲み込まれてしまうような荒々しい波と、気が狂うくらいに熱い彼の唇だった。

















[ 17/19 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



×
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -