落下のイメージ(鳴子)
ひゅるる、ひゅるりら。
落ちる、落ちる、どこまでも、深く。
家に帰れば集中力を欠いてしまうので、放課後に残って課題を消化していた途中、いつの間にか転寝していたらしい。そういえば昨日は夜更かしをしてしまって、寝不足なのだった。
ふわふわした意識の中で、それは唐突にやってくる。
がたんっ、
「……!!」
深い穴に落ちていくような、そんな感覚に陥って、前に投げ出していた足がびくりと痙攣する。その瞬間、反射的に助かろうとして壁に手をかける。しかし実際にそこには何も無くって、私の手はプリントだらけの机を思い切り叩いていた。
「っうお、び……っくりしたわ〜」
「……うぇ?」
自分自身は勿論驚いたが、声がした方に視線を向けると、そこには自転車部の鳴子くんが立っていた。
「ごめん、寝てた」
「お、おう……そんなん見ればわかるわ。しっかし、何しとるん?」
鳴子くんが私の机を覗き込んで、ああ、今日出た宿題かと納得する。それと同時に、なんで家でやらないのかと尋ねられる。
「家に居たらいろんな誘惑があるから……学校で、出来るところまでやって行こうと思って」
「なるほどなあ。ワイやったら誘惑に負けてしもていっつも提出日の朝やっとるわ」
「それ、知ってる」
声が大きくて言動が大袈裟な彼の言葉はよく耳に届いてくる。課題を忘れて、教科書を忘れて、先生に注意を受けながらも全て笑いに変えてしまう。どの先生も、そんな彼のことが嫌いではないのだ。それに私も。
「鳴子くんは、どうしたの?」
「部活終わって帰ろ思ったら、弁当箱忘れたの思い出してん。取りに来たらみょうじさんが寝とった」
「そう、なんだ」
「もう外、だいぶ暗くなってんで」
鳴子くんの言葉に窓の外を見れば、そこに自分の顔がはっきりと映るくらい、窓の向こうは深い闇が広がっていた。
「本当だ……うわ、結構寝ちゃったなあ」
「送ろか」
「え? い、いいよ。ひとりで帰れる」
「アホ。こんな遅い時間に女の子一人で帰したらな、先輩らにどつかれてまうわ」
自分の机からお弁当箱の包みを取り出して鞄に詰め込んだ鳴子くんは、私のプリント達を指して「早よ支度せぇや」と急かした。私はまだ了承していないのに、彼が有無をも言わせないくらいにそう言い切るので、促されるままにプリントを片付けた。椅子にかけていたブレザーを着て、鞄を持って先に廊下へ出ていた鳴子くんに続く。
玄関に着いて、下駄箱から取り出した靴を履きながら鳴子くんが尋ねてきた。
「そういやさっきの何?」
「え、さっきのって?」
「机ばーんて」
机ばーん。
彼の口にする可愛らしい擬音に少し笑ってしまいそうになったが、そういえば結構驚かしてしまった気がする。
「ごめんね」
「や、ええけど」
もう一度謝ると、鳴子くんは顔をこちらへ向けて「で、何やったん?」ともう一度尋ねてくる。あれは少し恥ずかしかったから、忘れてほしい気持ちもあったのだけれど、やはり気になるのだろう。
玄関を出て、暗闇に足を踏み出しながら私たちは会話を続ける。
「たまに、ね、なんか、うたたねしてると……落ちていくような感覚、ない?」
「ん? ベッドから落ちるんは、ようあるけど」
「うーん、そういうのとは違うんだよねぇ」
寝相は比較的いいほうだと思うので、これまでベッドから落ちるという経験はない。けれど、時折あるのだ。勉強机で転寝しているとき、ソファで寝転がっているとき、眠りかけたとき。そんなとき、決まって身体がふわふわと、浮いたような錯覚を起こす。それが急に降下し始めて、加速して、深い穴に落ちていく。その感覚にたまらなく恐ろしくなるのだ。
「なんやそれ、わけわからん」
「だよね、忘れてくれていいよ……」
この感覚は、おかしなものなのか。これを他人と共有しようなどとは思ってはいないが、少しだけ悲しくなる。こんなこと言う自分はどこかおかしいのだろうか、と。
「でもなぁ、ちょーっとわかるで」
「え?」
「落ちるって、感覚。寝てる時とちゃうねんけど」
鳴子くんがそんな風に言うので、一体どんな? 少しだけ興味の視線を送ると、彼は思いも寄らない言葉を発した。
「みょうじさんと居るとき」
「……え?」
何気ない、日常の会話をするように鳴子くんが口を開く。鞄を背中にかけて、前を見たまま、私の方は一度も見ないまま。
「鳴子くん……?」
「出られんねん、穴から」
そう言って鳴子くんが足を速めたから、私は少し早足で彼に駆け寄って、顔を覗き込んだ。唇を引き結んで、暗闇でもわかるくらい、ほんのりと頬が赤い。どういう意味? そう尋ねたかったけれど、彼は足を緩めてはくれなかったので、置いていかれないように私もついていくので精一杯だった。
待ってよ、送ってくれるんじゃないの? あまり早く歩いたら、私はこの暗闇に呑まれてしまうよ。真っ暗な穴に、落ちていってしまいそうだよ。
いつもの鳴子くんのようにちゃんと言葉にして言って欲しいけれど、それを口にされたら私はきっと、しっかり答えることは出来ないと思った。彼はそれをわかっていたのだろうか。私のこと、私よりも、よく見ていてくれたのだろうか。
「ねえ、鳴子くん」
速いよ、待って。
私を置いて一人で穴から抜けてしまいそうな鳴子くんに、縋る思いで口にする。と、彼はハッとして振り返り、咄嗟に私の腕を掴んだ。待ってと言いながら無意識に彼の肩に見える鞄を掴もうとしていた私は、彼のその行動に逆に驚いてしまう。
「……そやな」
ぽつりと呟いた鳴子くんは、一度だけ私の腕を解放すると、すぐに手を握りなおした。少し引っ張られるような形で、しかし一定の距離を保ちながら、彼は私の前を歩いた。
「ほなゆっくり、行こか」
手から伝わる熱が、私の不安を溶かしていく。私の方を見て薄く微笑む彼に、落とし穴は意外と近くにあるものなんだなとぼんやり考えた。
駅に着くまで、あと十分。
このままゆっくり、一緒に落ちてみようか。
ひゅるる、ひゅるりら。
それは恋に落ちる、音だった。
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