夜は天動説を信じない(岸神)




 地球という星があって、日本という国があって、私という一人の人間がいる。一人一人の人間や犬猫などの小動物も、皆個の人生という物語の上に生きている。世界はたくさんのストーリーであふれていて、誰もが人生という物語の主人公なのだと、むかし小説か何かで読んだことがある気がする。つまりは人は皆自分が世界の全てだという事。なんて自己中心的な考えなのだろう。

「当然ですよ、人は皆自分が可愛いのです」
「……キミも?」

 もちろん、と言って深く笑う。彼は未だに何を考えているのかわからないことがあって、私の考えを一蹴する。一応私のほうが先輩なのに、御堂筋君以外は敬う気などないらしい。
 岸神小鞠。御堂筋のおかげで殻を破ることが出来たのだと言うこの少年は、今は自制心など欠片も持ち合わせていないように思う。筋肉が好き。鍛え抜かれた良質な肢体に触れたい。だだっ広い視聴覚室に連れ込まれたかと思えばそう欲望を打ち明けられて、正直私は引いた。そんな岸神君のことだから、勿論先ほどの質問の答えはイエスしかないだろう。人は皆、自己中心的な生き物なのだ。

「だから僕はいつだって、今も尚、貴女に触れたいと思って、こうして自分を抑えるのに必死になっているんですから」
「全然抑える気なんて無いくせに……。私にはキミに好かれる要素なんてないと思うわ」
「みょうじさんの肉は素敵ですよ」

 五年間陸上部で鍛え上げられた私の脚を撫でつけながら、岸神君は舌なめずりをした。
 筋肉筋肉って、そればかり。岸神小鞠という男はアスリートの肉体美にしか興味が無く、私じゃなくたっていいのだ。私の体にしか興味がないと言われるよりもずっと酷い。

「御堂筋君に触れるために自転車始めたんでしょう?」
「そうですけど?」
「だったら、なんで私なの」

 当たり前のような顔して「そうですけど?」なんてふざけている。何で私は彼の目に留まってしまったんだろう。自転車だけ、追っていれば良いのに。

「僕はね、みょうじさん。もう知ってしまったんですよ。筋肉に触れることの悦びを、自分という殻を破って生きることの快感を。貴女のクラスメイトの御堂筋さんから教えてもらったんです」

 御堂筋君から彼の話をされたことは特に無い。だって御堂筋君はクラスでも異質で、私だって声をかけようと思うことは稀だ。課題のこととか、同じ係になったときくらいしか喋ったこともないのに。

「別に御堂筋さんから貴女のことを聞いたわけじゃありません。御堂筋さんの教室に居た貴女の肉に僕が惹かれただけです。僕の肉を見る目は本物だから」
「……」

 意味がわからない、とかぶりを振る。こんなことを続けていたらいつか彼はストーカーや強姦魔として世間に知られてしまいそうだ、なんて頓珍漢なことを考える。まあ、あながち全くの別物というわけではないけれど。

「みょうじさん、」

 整然と並べられた机の一つが列を大きく乱す。机の上に乗るなんて行儀が悪いと注意する教師や委員長はここにはいない。少し荒い呼吸を繰り返しながら私に迫りくる岸神君は、見た目によらず運動部なだけあって力が強い。机の上に押し倒されるような状況で抵抗を続けていると、不意に彼は動きを止めた。

「……天動説を知っていますか?」

 突然哲学じみた言葉が発せられて、意味がわからないまま少ない知識を手繰り寄せる。
 地球は宇宙の中心にあって、地球を中心に他の星たちが回転しているのだとか、大昔から存在している説だ。今は他にも色々な説が飛び交っているけれど、私はあまり好きではない。自分たちのいるこの地球こそが中心であり、全てなのだと、そういう傲慢さが垣間見えるからだ。それがどんな意味合いを持つのか、彼が何を言わんとしているのかが少しだけ理解できて、私は腹が立った。

「今のキミが地球ってことね」

 自分が世界の中心だから、何をやっても許される。そういう狂気染みた思考を持つ男に狙われて、抗う術など私は持っていない。

「……ふふ」
「っ!」

 私の言葉が満足いくものだったのか、にっこりと笑みを浮かべた岸神君は自身の手を私のスカートの中へと進めてきた。筋肉に触れたい。多分、彼が望んでいるのはその一点だけなのだろう。健全な男子のそれとは違う、純粋とも呼べるその欲望を、もう抑えきれないと言わんばかりにぶつけてくる。その欲望を満たすために自転車部へ入ったはずなのに、彼は御堂筋君から禁欲か何かを課せられているのだろうか。

「僕は初めて見たときから、貴女はイイと思っていました……傷だらけの足も、日に焼けた肌の色も、全てにおいて興奮します」

 どこが、とか、なんで、なんて疑問はもう既に訊く気もなくて。ただ不幸な私が可哀想だなとぼんやりと思う。私は別に岸神君なんて好きじゃないのに。キライでもないけど。だけど何で抗えないんだろう。別に好きな人もいないからだ。そんな風にたくさんのことを考えながら、岸神小鞠君の顔を改めて見てみる。この状況に興奮して顔をゆがめた彼は見るに耐えないけれど、優しげな物腰で、話をしていて落ち着くと思ったこともある。だけど、過去の話だ。

「岸神君、もう帰らなきゃ」
「大丈夫ですよ、別に門限があるわけじゃないでしょう」
「……」

 彼に目をつけられて可哀想な私。でもそれって私も天動説における地球と同じ考えなのではないだろうか。窓から見える空が橙から紺に染まるのを横目に見ながら、だめもとで諭してみるが効果は薄い。でもそろそろここの鍵を先生に返さなければまずいのでは。岸神君が何と言ってここの使用権を得たのかはわからないが、私は早くこの状況から脱したいのだ。

「別にいいですよ、帰っても」
「え」

 突然真逆のことを言って私の上から退いた岸神君に困惑を隠しきれない。今の今までこちらの主張を無視し続けて、一体何が彼の心を変えたのだろう。ポケットから取り出した可愛らしいハンカチで手を拭きながら、彼はいつもの穏やかな顔で言う。

「だけど、約束してくださいね。僕以外の人には、触らせないって」

 貴女の肉は僕のものです、なんて、世界中のどんな恋愛ドラマを探したってそんな口説き文句は見つからないだろう。だけど彼の目は真剣だった。

「それって、愛の告白のつもり?」
「……最初からそう言ってませんでした?」
「初耳だけど」

 きっと筋肉のことばかり考えて生きてきた彼は、ただ想いの伝え方を知らないだけだったのだ。そう理解した瞬間に脱力して、大きな溜息が出る。

「キミってやつは……」
「? それで、返事は? 聞かせてもらえますよね?」
「ち、ちょっと待って、岸神君」
「嫌です。僕は我慢が嫌いなので」

 ぴしゃりと言い放ち、私の方に差し出される手。綺麗な指先に目を奪われながら、私は覚悟を決めた。

「僕が信じるのはこの手の感覚だけです」

 多分きっと、世界の中心は私でも彼でもなく、私達だったのだろう。








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