本当はいちばんそばにいてほしい(真波)




※社会人設定

 年に何通かのメールのやり取りしかなくて、電話なんて滅多にかかってこなくて、帰省なんて年に一度あるかないかで。それでもテレビをつければ姿が見える。元気に走る姿が見られる。今も彼が生を感じられているなら私はそれで良いのだと言い聞かせ、テレビの電源を落とす。ただ電話だけは、いつでも繋がる状態になっている。

『あ、なまえさん?』
「久しぶり、山岳。元気そうだね。テレビ観てたよ」

 一人暮らしの家には今時珍しい、固定電話の向こうからくぐもった声が聞こえる。観ていたよと伝えると、ふふっとくすぐったそうに笑う。顔が見えなくても、昔と変わらない柔らかな笑顔が浮かぶ。私の一番好きな顔だ。

『なんか恥ずかしいなぁ』
「何言ってるのよ、今まで何度も観てるのに」
『そうだけどさぁ、俺今回メカトラ起きたし』
「でも序盤だし、すぐに巻き返したじゃない」
『うーん』

 山岳は歯切れ悪く唸って、それから何の脈絡もなく話を変えてきた。

『あっ、そーだ。なまえさん、来週仕事忙しい?』
「え、特に繁忙期ではないけど……」
『そっか』
「え、なに? 何かあるの?」
『ううん、何でもない。それじゃまた連絡するから』

 突然自分から話を振ったくせに突然話を終わらせた山岳は、挙げ句の果てに自分から電話をしてきておいて早々と切ってしまった。

「相変わらず自分勝手なんだから……」

 それでも、愛想を尽かすにはまだ、彼への愛が強すぎた。そんな理不尽さえも許してしまえるほどの魅力が山岳にはある。いや、あの頃の彼が忘れられなくて、突き放す事が出来ずにいるというのが正しい。
 高校時代、クラスメイトの東堂があまりにうるさいのでロードレースの応援に行った事があった。最後のインターハイなのだから女子は絶対見に来いとまくし立てられ、仕方なしにゴール前で待っていた。ファンの子たちに貰った、東堂尽八とでっかく書いてあるうちわを手にして。けれどそこに現れたのは東堂ではなく彼の後輩の真波山岳という一年生で。いつも学校で見かけるおどけたような顔じゃなく、真剣な顔でペダルを漕ぐ姿が目に焼き付いた。この子はこんな顔をするのかと、衝撃を受けたのだ。結局箱根学園は二位という結果に終わり、部員たちは皆例外なく目に見えて落ち込んでいた。後輩の手前涙こそ見せなかったけれど、いつもうるさい東堂の元気もなかったから。対して山岳は、目を真っ赤に腫らすくらい泣いたようだった。一年生でインターハイを経験して、まだ来年もある。それでも彼には「今」が大事なことだったのだ。

「見てたよ」
「……?」
「インターハイ、レース。最後だけだけど、観てた」

 休み明け、学校で見かけた彼に声をかけた。そういえばあのときも山岳は恥ずかしいなと言っていた。同じ言葉だけれど、それが意味するところは全くと言っていいほど違うだろう。

「先輩。俺、彼に出会わなきゃ良かったんじゃないかって思ったんだ」

 山岳は、あのレースで優勝争いをしたメガネの子を、坂道くんと呼んでいた。あの日あの坂で、彼に会わなければとしきりに繰り返す山岳は小さな子どもみたいにうな垂れていた。あの日というのがいつのことを指すのか私にはわからないが、山岳も多分私に伝えようとしているのではないとわかっていたから私も何も言わなかった。ただ、あの時それは違うと言った私の心境は、今となっては全く間逆のものとなっていた。
 その坂道くんとの出会いはきっと貴方を強くする。ライバルってそういうものでしょ。そう伝えると、山岳は力無く笑って「東堂さんにもそう言われたんだ」と口にした。東堂と同じ思考なのかと思うと微妙な気持ちだったのだけれど、案外彼もいいこと言うんだなと少し見直したりもした。まあ基本はうるさいやつなのは変わりないけれど。
 山岳は、今や世界で通用するロードレーサーとなっていた。アイドル並みにルックスも良いのでファンは多いそうだ。それでもなまえさんが一番だよと言ってくれるから、私はそれを鵜呑みにしてしまう。
 あの頃の私は、坂道くんとの出会いが山岳を山岳らしくいさせてくれたんだと思っていた。坂ではほとんど敵なしだった彼は、敗北を知り挫折を味わうことで自転車への執着が強くなった気さえする。だから私は山岳が元気でいるならそれで良いし、時折声を聞かせてくれる現状に、私のことを忘れないでいてくれるだけで満足だと言い聞かせて、こうした不毛な日々を続けている。
 だけど本当は、あの時の全てが間違いなんじゃないかと思ってしまう。あの日山岳の背中を押したりしなければ、山岳は今もここにいてくれたかもしれない。私の側に、ずっといたかもしれないのに。でもそれは単なる願望でしかなくて、あの夏の出来事がなければ、そもそも私と山岳がこういう関係になることだってなかったのだ。

 つまるところ私は、寂しいのだと、思う。

 たまにしか鳴らない電話に、画面越しでしか見ることの出来ない山岳。「電話くらいいつでも すれば良いだろう」という東堂のように、そういう考えを持てたら幾分か気持ちは楽だっただろうか。待つという選択肢しか、私には最初からそれしかないのだ。
 一週間なんて早いもので。山岳からの連絡が途絶えたまま「来週」になった。彼はまた連絡すると言っていたけれど、結局何の音沙汰もないじゃないか。私の予定を聞いてきたくせに、私には自分の予定を教えてくれないで。いつもは自分のことばかり優先して話すくせに。どうせ山岳にとっての私なんてその程度なんだろう。

『俺にはなまえさんが一番だよ』

 そんな風に言っても、どうせ向こうには現地妻がいたりするんでしょ。私のことなんてもうどうでもいいんだ、山岳は。きっと、そう。百年の恋も冷めるわよ。いっそ、こちらから別れを切り出してやろうか。山岳も、もしかしたら機をうかがっているかもしれない。

「……」

 受話器を手に、震える手でボタンを押す。東堂も言っていたし、一応私はまだ彼女なんだから、電話をかけちゃいけないなんてことはないはずだ。
 壁に貼られたメモ帳の番号をひとつひとつ確認しながら押して、息を呑む。かかってくるのはいいけれど、電話をかけるのはいつも緊張する。今日は特に。

『もしもし? 先輩?』
「……あっ」
『珍しいね! 先輩からかけてくれるの。突然で驚いちゃった』
「えっと、あ……」

 声を聞きたいんじゃない。そう、私は怒っているんだから。もうたくさんって、言わなきゃいけない。振り回すのもいいかげんにしてって。

「……山岳」
『はい?』
「今、どこにいるの……」

 本当はずっとずっとずっと、我慢していた。なんで私ばっかりって。自分勝手な山岳に腹を立てている反面、会いたくてたまらなかった。

「会いたい、山岳」

 吐き出したのは別れの言葉なんかじゃなくて、心の奥にしまいこんでいた願い。山岳が呼んでくれさえすれば、私きっと、いつだってどこへだって飛んでいくのに。

『……どこって、えーっと……』

 電話の向こうで山岳が困ったような声を発した。冷静になった私の耳に、聞き覚えのある音が飛び込んでくる。海外にいる山岳の電話から、近所のご婦人たちの笑い声が聞こえてくるのだ。

『……なまえさんの、家の前』
「!?」

 申し訳なさそうな山岳の声を聞いて、咄嗟に受話器を放り出して玄関へ向かう。散らかっているわけでもないのにいろいろなものに足を引っ掛けながらドアを開ければ、そこには先週テレビで観た大好きな顔があった。

「……なんで」
「言わなくてごめんね。東堂さんには言ってたんだけど」
「東堂からの連絡なんて滅多にこないよ……」

 いつもお喋りなくせに、こういう肝心なことは言ってこないやつだ。野暮だと思っているのかもしれない。

「連絡するって言ったのに」
「うん、ごめんね」
「山岳はいっつも自分のことばっかり……私のことなんて、考えてくれない」
「ごめん、なまえさん。俺も会いたかった」
「私は会いたいなんて、言ってない」
「えー……」

 嘘だよ、ずっと会いたかったよ。
 自然と溢れる涙を拭っていると、山岳はそっと私を抱きしめてきた。
「レースで勝ったとき、いつも一番最初に浮かぶのはなまえさん の顔なんだ」
「……私はレースでしか、山岳を観れない」
「俺はなまえさんの声しか聞けてないんだよ? 今時家電しかないとかありえないでしょ」

 今度携帯ショップに行こうよと山岳からの誘いに、それっていつの話? と意地悪く尋ねる。どうせこの後もすぐ、飛行機の時間があるとか言うんでしょう。いつものパターンだ。

「うん、近いうちに。俺、もっとなまえさんと一緒に居たいから。今回は暫くこっちにいるつもりだけど、もう少し待たせると思う」
「……」
「でも、きっと迎えに来るから」

 安易に結婚しようとか、婚約しないところが成長したなぁと思う。高校の頃、よく「卒業したら結婚してよ」とか甘い顔で甘い言葉を囁かれたりもしたけれど、少しは大人になったのだろうか。また、時期じゃないと互いに理解できる年齢なのだ。山岳の言葉も確約ではない。

「なまえさんは自分ばっかりって言うけどさ、多分俺も負けてないから。チームメイトより、テレビ局より、ファンの人たちより」

 本当は誰より、そばにいてほしいと願っていた。








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