うしろから頭を撫でる手(福富)
放課後遅くまで教室に残って勉強している女子がいる。それに気づいたのは俺ではなく、
「あの子、最近ずっと残ってるよな」
寮に戻る前、教室を通りかかった時に新開が言っていたので気づいたことだった。俺自身、その女子とはあまり関わりがなく、その話を聞いたところでそうかと相槌を返すほかなかった。
彼女の名前はみょうじなまえ。俺や新開と同じ寮生で、近々荒北と同じ洋南大を受験するらしい。後者は新開が東堂経由で得た情報だ。一人の女子のことを嗅ぎ回るのは些か失礼だとは思ったが、一足先に受験が終わって暇を持て余している新開と東堂が楽しそうなので放っておくことにした。少なからず俺の中にも、彼女の存在が気になるという思いは確かにあったのだ。
ある日の放課後、新開 が用事があると言うので一人で帰ろうとしていたところ、やはり一人で受験勉強に勤しむみょうじなまえが視界に映った。難問にあたったのか、険しい顔で溜息を吐いていたものだから何とも気になってしまい、近づいた。
「……はぁ」
「解らないところがあるのか」
「!」
人がいるとは思っていなかったのか、みょうじは勢い良く俺を振り返る。驚かせてすまん、と謝罪を述べるとみょうじはゆっくりと首を振り、俺との会話に応じた。
「福富も、残ってたんだ。明早は受験もう終わってるのに」
「今帰るところだった。みょうじが悩んでいるようだったから、声をかけたんだ」
「……ありがとう。優しいんだね」
優しい、と言われるのは予想外だった。荒北から鉄火面と言われるほど仏頂面で取っつきにくいという自覚はあったので、彼女のこの一言は少し衝撃的だった。
「優しくなどない。ただ、気になっただけだ。あまり根を詰めすぎるな」
新開や東堂も気にしていたようだったし、寮とはいえ夜遅くまで女子が残っているのは危険だ。早く帰れと暗に伝えても、彼女は中々に頑なだった。
「だって私の頭じゃもっと頑張らないと受からない」
どこかで聞いたような台詞だ。身近なところで既に根詰めてやっているやつがいるので、なんとも言えない気持ちになる。
「……どこが、わからないんだ」
「えっ」
自分でも、何故そんな行動をとってしまったのかわからない。みょうじの前の椅子を引いて、ノートを覗き込む。綺麗な文字の羅列。他の女子が書くような丸っこい字体ではなく、まるで教科書の手本みたいな字だった。
「ここ。この、文法がイマイチで……」
そう言って紙面を指差したが、その様子を見るにあまり乗り気ではないのだろう。こんな無愛想な男に勉強をみてもらっても、嬉しいはずもない。真波だったら確実に逃げ出していたに違いない。だがわからないままにはしておけないだろうと、俺は足りない言葉で勉強を彼女に教えた。人に伝えることの難しさを改めて実感して、けれどもしっかりと耳を傾けてくれるみょうじに安堵した。自転車以外なにもしてこなかったが、役には立てただろうか。
「ありがと、福富。少し自信ついたよ」
「そうか」
「受験頑張るから、応援してね」
「ああ」
手を振って、女子寮へ入っていくみょうじを見送る。応援は、勿論している。だが、彼女が希望大学へ受かったところで、俺と一緒に通うことはないのだという事実が脳裏から離れなかった。何故だか、俺にはその理由がわからない。いや、わかりたくなかった。
そして受験を迎えた荒北とみょうじ。手応えを聞くと「まぁまぁ、かな」と答えた顔は少し浮かなくて、合格発表の日も、その顔が晴れることはなかった。
「みょうじ」
「……」
「みょうじ」
「……」
教室の机に突っ伏して動かない。声をかければ、わずかに肩が震えた。
「やっぱダメだった。荒北は受かってたのに……私の頑張り、届かなかったよ……」
悔しい。悲しい。すすり泣く声を聞きながら、俺は何と声をかけて良いのかわからなくて、困惑する。こんなとき、新開なら上手く励ましてやれるんだろうか。
「ごめんね、せっかく教えてくれたのに、無駄にしちゃって」
「学ぶことに無駄などない」
「あはは、福富らしいね」
涙を拭って、気丈に振る舞うその姿を、俺は美しいと感じた。そして、知らずのうちに手を伸ばし、彼女の後頭部に触れた。
「!?」
「……」
「ふ、福富? その、ちょっと、恥ずかしい、んだけど……」
「ム、すまん」
ただ、机の上で腕を組んで途方に暮れているみょうじが幼い子供のように見えて、手を伸ばさずにはいられなかった。
「確か滑り止めは受かっていたはずだろう」
「……うん、でも、やっぱり第一志望の大学に行きたいよ。悔しい……なんで私、もっと早く勉強しなかったんだろうって」
「今さら悔やんでも仕方がない。受かった大学で、できることを探せ」
「さすが福富は、言うことが違うね……」
「……傷つけたか」
「ううん、全然。むしろありがとう。少し楽になったよ」
俺の足りない言葉に自信をつけたり楽になったり、案外みょうじも単純なやつなのかも知れないなどと勝手なことを考える。俺がそんな失礼な考えでいるなんて思ってもいないみょうじは泣いて赤くなった目で、笑った。
「挫けそうになったらまた、福富が励ましてよ」
「……俺でいいのか」
励ますなら俺よりも適任者がいるはずだと主張する。例えば新開とか東堂とか、新開とかだ。
「福富がいいよ」
俺の何がいいのか、全くわからない。しかし、向こうの大学でもしまたみょうじが挫けそうになったら、話くらいは聞いてやれると思う。
「福富、手あったかいね」
「……緊張しているからな」
照れ隠しにみょうじが口にしたことに対して素直な気持ちを伝えたときのみょうじの顔が少し面白くて、俺は自分でも知らずのうちに口角を上げていた。
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