寝ぼけたふり(小野田)
私の大好きな小野田坂道くんは、とても素直な人だ。人を疑うことをしないし、すごいと思えば躊躇なく賞賛を口にする。私はそんな彼が眩しくて、羨ましくて、愛しい。好きだと伝えたとき、どうして僕なんかをって慌てた様子の坂道くんは、自分が誰かに恋愛感情を持たれるなんて考えてもいないみたいだった。
「みょうじさん」
躊躇いがちに私の名前を呼ぶ声が好き。
坂道くんは、私がいつか自分から離れてしまうって本気で思っているようで私はそれが悲しい。むしろ不安なのは私の方だ。いつか坂道くんが本格的にロードの道を歩んで、私の手の届かないくらいに遠い人になってしまったら。私はきっと、ひとりになってしまう。だからもう頑張らなくていいよって言ってしまいたい。人一倍優しくて頑張り屋な彼に。
「みょうじさん? ……寝て、る?」
机に突っ伏していろいろなことを考えていたら、優しい声がした。さっきの、記憶の中の坂道くんよりもずっと優しく、こわごわと、私を呼ぶ。でも私は返事をしないの。もっと呼んでよ、私の名前を。もっと見てよ、私のことを。私だけを、どうか好きでいて。
「みょうじさん」
あのとか、えっととか、言葉にならない声を出しながら、どうやって私を起こそうか考えているようだ。そもそも彼をこの教室に呼び出したのは私の方なので、だから坂道くんは困っているのだ。悪い女だと、思う。
「あの、用があるって聞いて、ぼ、僕……っ」
坂道くんは私が狸寝入りしているなんて思っていない様子で、少しだけ罪悪感にかられたけれどそれもすぐに消えた。だって今日の私はちょっぴり強気。
「坂道、くん」
「うひゃいっ!?」
突然名前を呼ばれて驚いたらしい坂道くんは、裏返った声を上げて私を見た。私は寝たふりをやめて、坂道くんを真っ直ぐに見る。互いに見つめ合いながら、ああ坂道くんの瞳はやっぱり綺麗だなあとぼんやり考えていた。
「坂道くん、」
「え、な、なんですか……?」
同級生にも敬語が出てくるような、謙虚な坂道くんが好き。
褒め言葉を口にすれば自分なんかって言う少し自信なげな坂道くんが好き。
アニメが好きで、スポーツや争いごとなんか縁の無さそうな顔をして、レースになると結構熱くなってしまう君が、私はとても好き。
私がいくら言っても、ありがとうございますと照れ笑いを浮かべ受け入れてくれていながら本気にはしていない坂道くんに、私は私の気持ちを信じてほしいと思ったの。
「坂道くん、キスして」
「え……うええぇぇ!?!?」
真っ直ぐ目を見て伝えた。一応付き合ってるんだから、もっと触ってもいいよね? 私が君を好きだって言うのは冗談なんかじゃないってわかってくれるよね?
「みょうじさ……っ」
「……なまえって呼んで」
「っ、なまえちゃん……」
キスして、抱きしめて、私を愛して。ただそれだけを願う。
「ね、キスして」
放課後の教室には私たちの他に誰もいない。
「……っ」
息を呑んだ坂道くんが、私の両肩に手を置いた。
本気って伝わった?
触れた指先か震えが伝わって緊張が増したけれど、私は嬉しい。そっと瞳を閉じて唇を向けて坂道くんを待つ。けれども一向に唇が触れる気配はなくて、薄く目を開けたとき。
「!」
期待していた唇のぬくもりが額にあって、私は目を丸くした。ちょっと拍子抜け。なんで? そう思って坂道くんの顔を見たら、彼は真っ赤になっていて、だけどしっかりと私の目を見てこう言った。
「寝ぼけたなまえちゃんにそんなことするの、なまえちゃんに悪いし僕もいやだから」
坂道くんの口からはっきり「それはいやだ」という言葉が出て、一瞬拒否されたかと思ったけれど
「ちゃんと起きてるときにもう一回言ってくれると、う、嬉しいな」
そんな発言をされて、固まってしまった。そのすぐ後で「あっ、僕この後アキバに行くんだった!」と慌てて誤魔化すように教室を出て行った坂道くんを見送りながら、私は「起きてたんだけどな」とひとりごちた。
「……」
坂道くんがやっとの思いで口づけてくれた額を手でさすりながら、まあいっかと心から思う。
彼が望むなら、私はこのまま寝ぼけたふりを続けていようかな。
カミングアウトは、まだ先。
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