桜でいっぱいの春を知って(青八木)




 少し描き始めるのが遅かったかな。
 そう思って、小さく溜息が零れた。上げていた顔を下へと向けて、自分の手にあるスケッチブックを眺める。それは描きかけの風景画。新学期に入ってから部活の方針を決めたり計画を立てたりと何かと忙しかったから、ここへ来られたのは片手で数えられる程度だ。ほとんど散ってしまった桜の木を前に、落胆する。とても残念で、悲しい。俺は感情をあまり表には出さないけれど、今このときばかりは情けない顔をしているに違いない。それくらい、落ち込んでいた。

「……はぁ」

 なんと説明したらいいだろう。俺の少ない言葉で、彼女の納得する言い訳ができるだろうか。

「……」

 考えてみたが、答えは否。
 あいつは怒るだろうか、拗ねるだろうか。泣かれるのは、嫌だな。
 取り出したスケッチブックを鞄に仕舞い込んで、俺は重たく沈んだ心でロードバイクに跨がった。



「はじめちゃん、おはよう」

 朝、学校でそう声をかけてきたのは一学年下の恋人のみょうじなまえ。俺のことをはじめちゃんと呼ぶのは彼女だけで、先日それを真似た鳴子や鏑木にそう呼ばれた時は、よくわからないいろいろな感情がせめぎあって心が戦争状態だった。

 同じ中学出身の彼女は、こんな無口で無愛想な俺のどこがいいのか、自分で言うと少し虚しいが正直理解しかねる。しかし去年の入学式の日、俺のことを探し回っている新入生がいるという話を聞いて疑問に思いながらも俺のクラスへやってきたなまえと対面した時、彼女は俺とは違う底抜けに明るい声で言った。

「わたし、先輩の描く絵がとっても好きなんです!」

 同じ部活だったらしいなまえは目を輝かせてそう言った。俺は当時から人と関わるのが得意ではなかったから、同級生すらあまり会話しなかったのに後輩のことなど覚えてるはずがなかった。
 その日から彼女はよく廊下で会ったときなんかには挨拶してくれて、まあまあ会話するようにはなっていた。小野田と同じクラスらしく、たまに部活に差し入れにも来てくれた。そんななまえに告白されたのは、今から二ヶ月前のバレンタインデー。初めて身内以外から渡されたチョコレートと告げられた想いに頭が真っ白になった。好きなのは俺の絵で、正直自分に気があるなんて全く思いもしなかったのだ。そんな鈍感な男に告白するのはどれだけ勇気が要ることなのか、告白したことのない俺には想像もつかない。確かに俺もなまえが可愛いとは思っていたけれど、今は恋愛にうつつを抜かしている場合ではない。流石に断ろうと口を開いたが、

「また先輩に会いたくてわたし、総北に入ったんです」

 真っ直ぐな目でそんなことを言われては、断れるはずがなかった。俺の絵を好きと言ってくれた彼女が、今は美術部じゃなくて自転車競技部なのだということを知って頑張って下さいと素直に応援してくれた彼女が、何よりも愛しいと思ってしまったのだ。純太には申し訳ないと謝罪をしたら、おめでとうと心から祝福してくれたので嬉しかった。お前は自転車に手を抜いたりはしないだろ、とも。俺の返事を聞いてなまえは本当に嬉しそうな顔をしたけれど、だからと言って俺に依存するような子ではなかった。それが逆に何だか申し訳なくて、ホワイトデーのお返しとは別に他に何かして欲しい事はないかと尋ねたところ、こんな返答をもらった。

「わたし、はじめちゃんの絵が欲しい。あのね、桜がいいな。裏門坂に大きな桜の木があるの知ってる? もうすぐ咲くんじゃないかなあ」

 無理しないで、いつでもいいから。自転車部の副主将となった俺の負担を心配してか、申し訳なさそうに言うなまえの頭を撫でてやって、すごいの描いてやるから待ってろ、なんて柄にもなく豪語して。だけど結局未完成のまま散ってしまった桜。なまえだってそれは気づいているんだろう。もう四月も終わりだ。それでも何も言ってこないのは、彼女の優しさなのだと解ってはいたが、俺は罪悪感でいっぱいになった。彼氏らしいこと、何一つしてやれてない。



「なまえ」
「はい」

 名前を呼ぶと、ぴしりと気を付けをして礼儀正しく返事をするなまえ。最近はだいぶ敬語がとれてきたけど、まだ少し緊張はしているみたいだ。

「ごめん」
「え、何?」

 何に対しての謝罪かわからないでいるなまえに頭を下げて、まだ絵が出来ていないんだという旨のことを伝える。するとなまえは怒るどころか途端に破顔して、なぁんだ、と笑ってみせた。

「わたしいつでもいいって言ったじゃない。来年でも再来年でも、はじめちゃんの絵が完成するの待ってるよ」
「そんなの、」

 そんな先のことなんてわからない。忘れてしまうかもしれない。そもそも、この先も付き合っていけるかなんてわからないのに。そんな俺の思いを感じたのか、なまえはハッとして眉を吊り上げて不満を顔に出した。

「わ、別れる予定あるの?」
「いや、俺はないけど……」
「私だってないよ!」

 少し泣きそうななまえに慌ててごめんと謝る。なまえは小さく頷いて、それから黙り込んで何かを考えているようだった。暫くして、ぽつりと小さく呟くように告げられた言葉に俺は目を瞬いた。

「じゃあ……今日の放課後、少しだけ時間作って欲しい」
「え?」
「て、手嶋先輩には私からお願いするから……部活、ちょっと遅れて」

 自分の為に休んで欲しいと言わないところがなまえだなと思う。俺がどれだけ高校生活を自転車にかけているか知っているから、そんな安易に軽率な事は口にしないのだ。けれど、そんなことを言われたのも初めてで、控えめな彼女のお願いを無下にすることなど到底出来なくて、俺は、知らずのうちに口角を上げていた。

「純太には俺から言っておく。そんな顔しなくても大丈夫だ」

 元はと言えば、俺が約束を破ったのが悪いのだ。なまえはもっと違うお願いにすればよかったと後悔していたが、そもそも任せておけと言ったのは俺の方だった。好きな子に少しはいいところを見せたいと思ったのは事実だし、全面的に俺が悪い。
 しょんぼりとしているなまえの頭にてをやって、出来る限り優しく撫でてやる。俺は喋るのが得意ではないから、自分の気持ちをなまえにどう伝えていいのかわからない。ただなまえが俺に何かを伝えたくて、俺と少しでも一緒にいたいと思ってくれて居るのなら、少しくらい応えてやりたいって思う。

「放課後、教室に迎えに行くから」

 ちょうど予鈴が鳴ったので、それだけ告げて俺は自分のクラスへと向かった。なまえは、一度だけ会釈をして、踵を返して逆方向の自分のクラスに戻っていった。

 自転車に真剣に打ち込むようになってからほとんど開いていなかった、中学校指定の分厚いスケッチブック。最後のデッサン以来何も描いていなかったけれど、最近白黒のラフな桜のスケッチをした。彼女に欲しいと言われた、桜の絵。だけど完成する前にもう桜は既にほとんど散ってしまっていて、俺の胸中には虚しさだけが残った。大丈夫だよと許してくれたなまえの言葉にすら、それを言わせてしまった俺自身に憤りを覚える。
 放課後、二年の教室になまえを迎えに行った。今週は教室担当であるなまえの掃除が終わるのを廊下で待つ。その間、他クラスから通りがかった鳴子や今泉に「部活行かないんですか」と問われたが、俺の視線の先にいるなまえを見て大体は察してくれたようだった。待ってます、とだけ言って一足先に部活へと向かった。



「裏門に行こうよ」

 正面玄関で靴を履き替えた彼女はそう言って笑った。今日は美術部の活動がないらしく、手には自転車のチャームがついているスクールバッグ。どうして俺のことをこんなに想ってくれているんだろうって、ずっと考えているけど答えなんか出るはずもない。

「ああ、わかった」

 裏門坂には、俺が描けなかった桜がある。もう花は散り終えてしまったけれど、堂々と変わらない場所に立っている桜の木。なまえは何を考えているんだろう。彼女が望むならと了承したけれど、実は俺には結構辛い現実なので直視したくない気持ちがあって、重たい気持ちのままなまえの後をついて歩いた。

「はじめちゃん」

 桜の木の前までやってきたなまえが、俺を振り返り名前を呼ぶ。なんだ、と返した言葉は自分で思った以上に低い声で響いて、怯えさせてしまっただろうかと顔を伺えば全くそんな風には見えなくて、ただただ穏やかな笑みを浮かべていた。

「わたしね、先輩の描く絵が本当に好きだったんだぁ」

 先輩、となまえが俺を呼ぶとき。それは中学時代の俺のことを指す。彼女の存在を認識すらしてなかった俺を、俺の絵を、好きだと言ってくれる。何の脈絡もなしに放たれた言葉を聞きながら、俺も中学時代に描いた自分の絵を思い浮かべる。課題がない限りは、風景画ばかりを描いていた。

「わたしが初めて見た先輩の絵は桜の絵で、中学校の校庭に咲いてた桜の木で。たくさん並んでた満開の桜だったけど」

 中学の校庭には何本もの桜の木が連なって咲いていて、とても圧巻だったのを覚えている。俺はその場所が割と好きで、よく部室から見えるその場所をスケッチしていた。

「たくさんの桜だったけど、その中でお気に入りの桜、その頃の先輩にはあった?」
「? お気に入り……?」

 なまえの言葉の意味が解らなくて、素直に首を振って否と答える。沢山の木の中でどれがいいかなんて一本だけを選ぶことなど誰もしないし、群生しているからこそそれは美しいのだ。

「わたしに似てるよね」
「?」

 たくさんの桜の木のように、俺はなまえを大勢の生徒から見つける事は出来なかった。意識すらしたことがない。だけど、今ここにあるのは、大きな桜の木が一本だけ。堂々と、花が散ってもその存在を主張するかのようにそびえ立つ。なまえは桜と自分の存在を、重ねているのだと言った。

「わたし、もうちょっとだけはじめちゃんに、わたしを見て欲しいなって思ったの。でも本当にちょっとだけだよ? 頑張ってるはじめちゃんにそんなこと言えないから、」

 だから、わたしの大好きな絵を描いてもらおうと思ったの。
 照れ笑いを浮かべながらなまえが本音を語って、その瞬間たまらなく彼女のことが可愛いと思ってしまった。

「お花が散ってもいいよ。来年まで待つから。でも、来年はもう少しわたしのほうも見てね」

 最後に「インターハイ頑張ってね」と言って背を向けた彼女に、俺は胸を締め付けられる思いだった。
 頑張ろう、全部、献身的な彼女の想いをムダにしないように。

「付き合ってくれてありがとう。早く戻ろ、部活に行かなきゃ」
「……ああ」



 そうだ、今度の休みの日は絵を描こう。来年まで待つなんて言わないでほしい。
 なまえの笑顔を思い出せば、満開の桜も描けそうな気がするんだ。








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