光をくれてありがとう(石垣)




夕日が差し込む。楽器に反射して、きらきらと光る。それはなかなかに幻想的な煌めきだけど、楽譜が見づらくなるためついつい顔を顰めてしまう。そんな小さな眩しさに耐えつつ、私は楽譜に書き込まれた小さな字たちを目で追いながらマウスピースに息を吹き込んだ。
ベルから出ていく音はぱっとしない。金管楽器の中で高い方でもなく低い方でもないこの音は、どうもみんな注目してくれない。人数が少ないからといって、入部時に顧問に言われるがままトロンボーンにしたのは失敗だったかもしれないな、といつも思ってしまう。本当は、楽器の選択を間違えたのではなくただ自分がヘタクソなだけだと分かっている。でも心の中でくらい、自分の非から逃れるようなことを言ったっていいじゃないか。そうやっていつもいつも、自分の下手さから逃避する。
練習場所である三年一組の教室は、吹奏楽部パート練習御用達の場所の筈なのにしんと静まり返っていた。
自分が鳴らせば静寂ではなくなる。だけど鳴らす気にはなれなくて、マウスピースに吹き込む筈の息は口からただ漏れ出るだけだった。楽器を床に静かに置く。手持ち無沙汰になった手はぺらぺらと楽譜のファイルを捲る。何も知らない人が見たらまるで抽象画かと思ってしまうような楽譜の汚さは、練習の量に比例する。練習の量と演奏のスキルが比例するかと聞かれれば、まぁ比例はするのだろうがその割合がどれほどかは私には分からなかった。
そういやこの前の合奏でアドバイス貰ったところがあったっけ。そう思いながら色ペンを取り出して、楽譜にひどく大きな字で書き漏らしていたアドバイスを付け足す。割と大事な部分だから、蛍光ペンも引いておこうか。思案していると、廊下の奥からぱたぱたと足音が聞こえてくる。軽い音だからきっと先生方ではないだろう。では部員の誰かが何か伝えに来たのだろうかと思ったが、大体の連絡事項は部活動開始前に伝達された筈なのでその考えを打ち消した。
足音はこの教室の前で止まる。誰か入ってくるのかと少し緊張しつつ様子を見ていると、前方の戸ががらりと開かれた。戸を開けた人物は私の存在を知って一瞬目を大きくして、でも臆することなく教室に足を踏み入れる。

「部活お疲れさん、みょうじ。ちょっと忘れもんしたから失礼するで」
「あぁ。ええよ気にせんで」

入ってきたのは石垣光太郎だった。私は彼を横目でちらりと見つつ返事をする。そして意識を書き込み途中の楽譜へと戻した。
水色の蛍光ペンでべたべたと塗り書き込んだ言葉を目立たせる。「一音一音を大切に」「きちんと区切る」という似たような言葉でも頭の中に叩き込むために書く。ちょっと馬鹿らしいかもしれないと思うときもあるけど、それでもとりあえず真面目に書き込んで、意識をするしかない。

「何描いとるん」

忘れ物らしいノートを手にした石垣は不思議そうな顔をしてこちらに問いかける。吹奏楽部なのに楽器を吹かずに何か書き込んでいることに違和感があったのだろう。

「楽譜にいろいろ、言われたこととか」

そういった感じのものを、書いてる。
曖昧にそう答えると、石垣はなるほどなと頷く。そしてこちらに寄ってきて、楽譜をちらりと見た。パーソナルスペースにぎりぎり入り込んでこなかったり、不躾に楽譜を凝視しなかったりという行動が石垣らしい。その辺の男子がやったら不快に思うような行動でも、石垣がやると何故か不快ではなかった。彼の人徳のなせる技なのかもしれない。
現代アートみたいやなぁ、感心しているかのような声音で石垣は言う。楽譜を人に見せるとだいたいその汚さに笑われるのだが、やはり石垣は笑わなかった。

「今、何の曲やっとるん」
「野球部の応援で吹くやつと、あとコンクールの曲」

ルパン三世とか、コンバットマーチとか。
代表的な曲名を挙げてみると、石垣は分かる分かると嬉しそうに頷いてみせる。コンクールで吹く曲名も一応言ってはみたが、今度はあまり有名な曲ではなかったため石垣は首を傾げた。
全てのペンをペンケースに押し込んで、床に置いていた楽器を手に取る。やっぱり夕日が反射して、一瞬私の目を射抜いた。それに思わず目を細めて、それから逃れようと視線を上げると不意に石垣と目が合う。どちらも眩しいなと、ふと思った。

「ちょっと曲やってくれん?」

楽器を手にしたまま吹こうとしない私を見て、石垣はそんなことを口にする。
石垣が教室を去ってから練習を再開しようと思っていた私はその台詞に戸惑ってしまった。まだまだ完成しきっていない状態で部員以外の人に演奏を聞かせるのは、恥ずかしいことこの上ない。曲も見せ場があればそこを吹けばいいかもしれないが、コンクールで演奏する曲はトロンボーンの一切目立たない曲だ。他の音を支えることに徹しているといえば聞こえは良いけど、そんな曲を私一人で吹くとなると、あまり普段音楽を聞かない人からしたら決して楽しい演奏ではない。

「私メロディ吹かないし、わかんないと思う。あと……そんなに、上手くない」

ほぼ音符の見えなくなった楽譜を眺めて言う。探してみてもやっぱり主旋律なんてなくて、どこを切り取っても私の演奏だけで満足させることは出来ないなと思う。
そしてどちらかと言えば、付け足すように呟いた後半部分が本音の大部分を占めていた。石垣光太郎という男はそれに気付いたようで、優しく私を諭す。何故そんなに深い付き合いでもないのに私の深層に気付いたのかは謎だったが、石垣はきっと人の心を真綿で包み込むことが出来る人なのだと何となく、肌で感じた。

「上手いよ。いつも練習してるん聞こえてくるから」

どうせお世辞だ、と思う。
私は上手くないのは私自身が一番分かっている。卑下ではなく事実として。石垣はきっと、楽器の音をよく知らないからどのような音を聞いても「上手い」と言うのだ、きっと。そんな思いが頭の中を駆け巡りつつも、優しい言葉を掛けてもらえたのが嬉しかったみたいで、私はぽろっと弱った心を石垣の前に差し出してしまう。自分の心の弱さに辟易しつつも、止めることはできなかった。

「……一年で、上手い子入ってきて。先輩なのに下手で恥ずかしいなて、思ってるの」

静かな教室に、私の声が落ちた。普段ならこの教室はそれほど静まり返ったりはせず、隣で澄んだ音が聞こえる。病欠の後輩が座るはずだった席は今は何にも無い。だから今日は私の声と、私のヘタクソな音と、ふらりとやってきた石垣の声だけが響く。

「それやったら俺とお揃いやな」

現代アートな楽譜の横に佇んでいた石垣は天井を見上げて、少し寂しそうに笑った。
お揃いって、何がだろうか。咄嗟に意味が分からずに「何が?」と聞くと、石垣は微笑んだまま、そのままの意味だと短く返した。

「そりゃ上には上がおるかもしれんけどさ」

石垣は楽譜から離れて忘れ物のノートを手に抱えて、しっかりとした足取りで前方の戸へと向かっていく。演奏しなくていいのかと一瞬疑問に思ったけれど、何も言わずに石垣の背中を見ていた。

「下で支えてるみょうじや俺やって、精一杯やってるやろ。だから自信持ってやればええよ」
「……そういうもん?」
「そういうもんや」

石垣の言葉にクエスチョンマークを投げかけると、優しい声でクエスチョンマークを抜いたものを投げ返された。思いの外それが心地良くて、そういうもんかぁ、とまた同じような台詞を口の中で呟く。
石垣の表情は夕日に照らされていた。寂しそうな顔に見えなくもなかったが、目はしっかりと何処かを見据えている。お揃いとは、と私は頭の中で疑問を紐解こうとする。そしてつい先日、石垣の所属している部活にとんでもない一年が入ってきたとかなんとか誰かが漏らしていたのを思い出す。そうか、そういうことか。気付いたけれど私は何も言わなかった。石垣も、私が気付いたことに気付いたようだったけれど、笑うだけだ。
それ以上言葉は交わさない私達だった。けど、立場が一緒な私達は少しだけ、相手の存在に励まされた気がした。石垣と特別仲が良いわけではなかったけれど、石垣が自信を持ってやるなら、私も頑張ろうかなと思えた。
石垣はひらりと手を振って、前方の戸から消えていく。二秒遅れて手を振った私を見る人はいなくて、ついつい眉を垂らして笑ってしまった。








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