honey apple pie(荒北)




※大学生設定

 キッチンから甘い香りが漂ってくる。覚えのある匂いに、普段は立ち入らない場所に顔を覗かせた。

「何作ってんのォ?」
「あ、靖友くん。ちょっと、アップルパイをね」

 予想通りの回答に、自分から尋ねておいて「ふーん」と素っ気ない返事が出た。そういや福チャンが好きだったっけナァと呟くと、鍋の中で煮立っているフィリングをかき混ぜながらなまえが小さく笑った。

「それはもう何度も聞いたから知ってるよ」
「で、何でそんなん作ってんダヨ?」
「林檎が安かったのと、美味しいパイのレシピを友達から教えてもらってね」

 そう言って視線で示した先には、大学ノートの破かれた一枚紙。主に書かれている黒い文字は普段見慣れたなまえの字とは異なるので恐らくはその友人とやらがわざわざ書いてくれたのだろう。しかしレシピのところどころにあるポイントらしき部分には蛍光ペンで線が引いてあったり小さなイラストが添えられていて、ああ、この細かい部分は彼女の仕業だと直感的に感じる。

「気合い入ってるネ」
「せっかく作るなら美味しい方がいいでしょ?」

 俺との会話の最中でも、鍋の中身を焦がさないように気をつけているなまえはすぐに火を止めて鍋を濡れ布巾の上に置いた。じゅっと短い音がして、彼女と一緒になって中を覗き込む。己の水分でしんなりとした林檎が、沸々としながらシナモン独特の香りを漂わせる。しかし俺の好物はベプシだが好きなのは炭酸飲料であって別に甘党なわけではない。キッチンに置かれた砂糖の袋に小さく溜息を吐く。そろそろ飯の準備もしないとヤバいんじゃナイ? そう尋ねると、なまえは少しだけハッとして壁掛け時計を見てから「あー……」と呟いた。

「今日、お惣菜じゃダメ?」
「ハァ!?」

 冷蔵庫に視線を注ぎながら茶目っ気たっぷりに言ったところで、それは許されることじゃない。俺は呆れながら、まだ調理途中のアップルパイを見た。

「そんなモン作ってる場合じゃないんじゃないのォ?」

 俺の睨みに少し怯みながらもなまえは両手を合わせて「ごめんね」と謝罪を口にする。「唐揚げ買ってきたから」って、そういう問題じゃねェ。

「俺は、お前の作る飯が食いたいのヨ」

 わかる? 苛立ち孕んだ言葉に、しかしなまえは少し頬を赤らめる。俺だって何だか恥ずかしい台詞を言ってんナァとは思ったけど、この気持ちを偽る意味もないので正直に言う。せっかく一緒に住んで、一緒に寝起きして、一緒に飯を食える関係なのに、それではあまりに寂しい。正直俺は料理なんか炒り卵くらいしか出来ないし、野菜を洗ったり食器を出すくらいしか手伝えないのだから文句は言えないのだが、その他の掃除や洗濯なんかは俺も手伝うから。そもそもお前の作る料理がもっと食べたいと、同棲を切り出したわけで。だがしかし、今からパイをオーブンで焼いて片づけをして夕飯の準備に取り掛かるのは、かなり大変だというのは俺でもわかる。大学から帰ってきたのに家のこともしなくちゃいけないのだから当然だ。じゃあ何故休みの日じゃなくてこんな時間からお菓子作りを始めてしまったのか、なんてことは聞かずとも理由は解る。新しいことを覚えたら、試したくなるのが人間だからだ。
 俺の睨みが効いたのか、申し訳無さそうに視線をさまよわせながらしょんぼりと肩を落とすなまえを見れば、もうこれ以上は何も言えなかった。なまえの作る料理以上に、俺はなまえが好きだからだ。

「……今日だけネ」

 先程並べた言葉を取り繕うように、出来るだけ優しく口にする。そっと頭を撫でれば一瞬だけびくりと震えたなまえは、安心したようにホッと息を吐いた。



「……ごめんね、手抜きで」

 電子レンジで惣菜を温めた後、オーブンに設定してパイを入れた。食事の合間にもキッチンから甘ったるい匂いがしてくるが、特に気にせず飯を口に運ぶ。やっぱりなまえの作った唐揚げのが美味いと感想を言えば、申し訳ないながらも嬉しそうに破顔して、明日は気合い入れて作るねと言ってくれたから、宜しく頼むわとだけ返した。

 食事を終えて一息ついてから、風呂に入る。パイを焼くのにもそれなりの時間を要するらしいので(更には粗熱を取る時間も必要だ)、なまえも洗い物などを済ませてから、完成形のアップルパイを運んできた。一人分に切り分けられたパイにはバニラアイスが添えられていて、それを見て思い出されるのはやはり福富寿一という名前だった。
 フォークでアップルパイを切って口に運ぶなまえを見ながら俺も一口。

「甘過ぎジャナイ?」
「私はこれくらいが好き」

 そう幸せそうな顔でぱくぱくとアップルパイを平らげていくなまえ。先程晩飯を食べたばかりだというのによく入るもんだと感心してしまう。しかし好きなものは別腹と言うから不思議でもないが。

「でもヤッパ甘過ぎだわコレ」

 砂糖の分量間違えているんじゃないのか。そう疑問に思って尋ねると、なまえはそんなことないよと微笑む。

「俺はギブ。もういーわ。なまえにやるヨ」

 半分以上パイが残っている小皿をなまえの方に押しやると、なまえは自分の方へ小皿を少し引き寄せたが、こちらを上目遣いに見たまま「うん……」とあまり嬉しくなさそうに――というか、何やら言いたそうにしていた。

「……ナニ?」
「う、ううん……あの、アップルパイも食べる。食べるんだけど、違うのも欲しいなって」
「…………」

 違うもの? やや逡巡しつつ天井を見つめてから視線をなまえに戻すと、彼女は頬を林檎のように赤らめていて、俺は「ああ、なるほどな」と理解する。

「欲張りダネ、なまえチャンは」

 優しい言葉とは裏腹に、噛みつくように唇を重ねた。なまえからのオネダリは、ごめんなさいの代わり。浮気以外で俺が本気で怒るわけがないのに、許してほしくて甘えてくるのだ。
 息をつく暇もないほど激しく口づけて、解放する頃にはアップルパイに添えられたアイスはでろでろに溶けていた。その形のなくなった乳白色の液体を視界に入れながら俺は、なまえの唇からも伝わる砂糖の甘さに舌を出した。

「……あっま」

 その様子になまえが笑う。

「キスは甘い方がいいじゃない」

 そう言って再びアップルパイの皿を取るなまえが本当に幸せそうで、

「……ソウダネ」

 俺は暫く甘い余韻に浸っておくことにした。








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