ねえほら、こういう気持ちだよ(真波)




 人を好きになったことないって、その人は言った。じゃあ俺を好きになってよと伝えたら、朗らかに微笑みながら「それは無理」と断言してみせたその人は、今日卒業を迎える先輩だった。



 暑い夏の日。インターハイで負けて柄にも無く落ち込んでいた俺の元へやって来た先輩らしき人は、あろうことか王者箱学を背負っていたにも拘らずに敗北した俺に向かって、良かったね、と言った。正直信じられない、と思った。何なんだこの人はって憤慨して、俺は感情を隠すのが得意ではないから思い切り顔に出ていたんだろうけど、それを見ても尚先輩は笑みを崩さなかった。
 喋ったことは数えられるほどしかないはずだ。廊下で何度か荒北さんや新開さんと話しているところを見かけたりはしたけれど委員会とかの業務連絡みたいなもので、すごく仲がいいわけではないようだった。東堂さんのファンと言うわけでも無さそうだし、とにかく俺は、その人のことをあまりよく知らなかったのだ。

「楽しいのも嬉しいのも悔しいのも、青春でしょ。真剣に打ち込めるものがあるから、そうやって色々な感情があるんだと思うの。正直羨ましいよ」
「……先輩は、ないの……?」

 ないねえ。ふにゃりと破顔して、俺にハンカチを差し出す先輩の指先は夏であるのにも拘らず白かった。真っ白な肌に似合わない濃紺のハンカチを礼とともに受け取って、目尻に溜まった涙を拭く。

「青春でもなんでも、勝てなきゃ意味なかったんだ。俺が、先輩達の走りを全部ムダにした」
「そう?」

 先輩にとっては羨ましい青春の一ページでも、俺から見れば勝てなかったことがこの世の終わりみたいに悲しくて。他の先輩達に顔向けできなくて。だから人目のつかない場所で一人で居たのに、この先輩は、

「でも、楽しそうだったよ」

 と、やはり笑顔でそう言うのだ。

「……俺だって、走っている最中は楽しかった。坂道くんと、本気の勝負が出来たんだ……」

 自由に走れと、東堂さんが言ったから。そうすれば俺が勝つと信じていてくれたから。だけど俺はその期待にはこたえられなくて、胸には悔しさだけが残る。涙が染み込んだハンカチに、顔を隠すように顔を埋めた。そしたら先輩がふっと息を吐くのがわかる。それは呆れだとか、蔑みとかではなくて。ただひたすらに優しい、笑み。

「本気で走れて良かったね。本気でぶつかって負けて、悔しくて良かったね」

 言いながら、今度は直接俺に伸ばされる先輩の手。細く長い指が、俺の髪に触れて、頭を撫でる。

「そうしたら来年、もっと頑張れるから」

 ハッと顔を上げて、先輩を見る。煌々と照る太陽のせいで逆光になっていたけれど、それでも先輩の笑顔は俺の脳裏に焼きついた。
 よくやったとか、精一杯頑張ったんだから仕方ないとか、そういう慰めなんかひとつもない。ただひたすらに「良かった」と言う。負けることが良いことなんて、おかしな人だ。



 夏が終わり秋が訪れて、インハイ最終日にあったことが忘れられなかった俺は気がつけばその人の姿を探していた。荒北さんと同じクラスのみょうじなまえさんという名前を知ったのはこの頃だ。
 先輩は、学校で笑うことが少ない。福富さんや荒北さんと会話するときは、福富さんが無表情だからかなとか荒北さんが怖いのかなとか色々思ったけれど、どうやらそれも違うらしい。他の先輩や、俺と廊下で会ったとしても、彼女はあの時のような笑顔を見せることはなかった。その理由が気になって、目で追って、俺はみょうじ先輩にどんどん惹かれていった。
 ある日の放課後。「最近よく会うね」と、中庭掃除で葉っぱを掃いていた先輩に言われた。いつもはサボりがちな教室掃除でゴミ捨てを買って出たのもこの為で、全ては俺の打算的な行動だった。それでもただ一目見れたらいいなって思っていただけだったのに、先輩が久しぶりに笑顔を見せてくれたから、俺は咄嗟に「先輩に好きな人はいますか」って聞いていた。

「好きな人? いないよ。っていうか私、まだ特定の人を好きになったことないかも」
「新開さんは?」
「あー、彼はモテるよね。たまーにお菓子くれるけど、それだけ」
「東堂さんは?」
「あの人こっちが黙ってても勝手に喋ってくれるから、一緒に居るのは割りと楽かな」
「……荒北さん」
「んー……委員会が一緒だけど、その話しかしたことない」

 じゃあどうしてインターハイ応援に来てたのと聞けば、

「え、だって箱学のインハイ出場は毎年だし、他の子も割りと応援に来てるから」

 なんて返答がきた。そりゃそうだ、と自分で呆れてしまう。誰か特別な人が居た訳ではないのだと安堵するとともに、先輩が発した言葉がどうにも引っかかる。じゃあ俺は? インターハイのときも、今この瞬間も、俺だけに向けられた笑顔を見て期待をしてしまった。嫌われてはいないだろう。もしかしたら先輩も、俺のこと好きかもしれない、なんて思い上がりもいいところだ。

「じゃあ、俺は?」
「え」

 頭の中に浮かべた言葉をそのまま口にしていて、だけどもう引っ込みがつかなくて、衝動のままに口走る。

「俺を好きになってよ、なまえ先輩」

 初めて面と向かって名前を呼べば、先輩は一瞬だけ驚きを顔に浮かべて、だけどすぐに笑いながら「ごめんだけど、それは無理」と言ってのけた。告白を一蹴された俺は実を言うと結構落ち込んでいたんだけれど、そもそも好きな人がいないなら俺にだって望みはあるはずだって、そう前向きに考えることにした。

「でも、先輩俺が嫌いなわけじゃないでしょ」
「うん、荒北くんよりは好きだよ」
「え、それ何基準ですか?」

 そんなやり取りをしていたら、教室の窓から「何やってるの山岳〜!!!」と委員長の声が響く。俺の戻りが遅いことを怒っているみたいだ。

「ほら。早く、行きなよ」
「ごめん先輩。でも俺、本気だから」

 あの日から貴女が好きなんだって、知っていてほしい。決していい加減な気持ちなんかじゃなくて、俺はもっと先輩のことが知りたいんだ。

「忘れないで下さいね」

 そんな風に言って、それからは毎日先輩に会いに行った。宣言している以上は、もう怖いものなんかない。別に迫るわけでもなく挨拶したり雑談するような関係で、先輩も別に俺を鬱陶しがったりはしなかったからそこは安堵していた。



 初冬のある日、学校の外で先輩を見かけた。何だか校外で声をかけるのはストーカーのようで気が引けて、だけど気になってしまって、そっと様子を伺う。その時点でもうストーカー染みているのは自分でも分かる。だけどそんなことは気にならない。ただ本屋に入って先輩が見ていた海外留学の本に俺は、釘付けになって。

「……留学、するの? 先輩……」
「真波君、いたの」

 声が震える。先輩は、後を尾けていたことを咎めるでもなく、俺の存在にただ驚きを顔に浮かべていた。真剣な顔で問いかける俺に、先輩もはぐらかさずに答えてくれた。

「……まだ決めてないよ。考えてるの。よその国に行けば、私にも何か見つかるんじゃないかなって……」

 どういう意味? その問いかけには答えてくれず、先輩はまたねと微笑んで俺に背を向けた。待ってと追いかけることも出来ず、その日を境に俺は先輩に声をかけることが出来なくなっていった。



 思えば俺は、約半年の時間を部活と先輩に費やした。結局今年のインハイは惜敗して、先輩に振り向いてはもらえず散々だ。だけど部活はまだ来年も再来年もあって、もう俺に負けるつもりは無い。けれど、先輩との来年は、もうない。

「結局先輩は、俺に応えてなんかくれなかった。ずるいや」
「ごめんね」

 俺が渡した花束を手にした先輩は、困ったように眉尻を下げて微笑んだ。好きになれなくてごめんねとか、そんなつまらない言葉は俺は要らない。

「私、本当に空っぽでつまらない人間なんだよ。真波君に好いてもらえるような要素なんてない」

 人は誰しもが、何かしらに興味を持つ。俺に自転車が、山があるように。泉田さんが己を磨くことを趣味にしているように。クラスの女の子が、アイドルの追っかけをしているように。東堂さんのファンの人たちみたいに。けれど先輩は、自分にはそれがないのだという。

「部活にも、学校にも、友達にも、何に興味を持てばいいのかわからなくて。だからあの日の真波君が、羨ましかったの」

 先輩にはないの、という俺の質問に「ないねぇ」と答えた時の顔が脳裏に浮かぶ。俺に向けられた、綺麗な笑顔。先輩は自分には何もないと言うけれど、俺には到底そうは思えない。何故なら先輩はあの時、

「あの時先輩、俺を応援してくれたじゃないですか。俺を羨ましいって、言ったじゃないですか」

 今何もないなら、これから見つければいいだけのことだ。その努力をしないうちに諦めてしまうのは、あまりに勿体無い。

「先輩が俺を嫌いだっていうなら諦める。でも、先輩はそうは言わなかった……俺、今でも先輩が好きだよ」
「真波君、」
「今先輩に一番近いのは、俺でしょ?」

 先輩の花束を持つ手を、その上から包み込む。留学なんて知らない。先輩がどう思っていようが、そんなものより俺の想いの方がずっと強いに決まっているんだから。

「恋も愛も俺が教えてあげるから。だから先輩、もう少しだけ俺と一緒にいてよ」

 この気持ちを分けてあげたい。俺の身体を開いて、俺がどれだけ先輩を好きなのか見せてあげたい。全部、教えてあげたい。

「遠くへなんて行かないで」
「……」

 懇願するように口にすれば、先輩は「参ったなあ」と口にして、それから少しの間のあとで「……実はね」と笑顔でうそぶいた。

「東京で就職決まってるのよ、私」
「へっ」
「考えてるって言ったのは本当だけど。でも、それだけだよ。だって――」

 手を握ったまま唖然とする俺に、先輩は唇を耳元に近づけて更にこう囁く。

「四六時中真波君の顔が浮かんで、消えないんだもの」
「……!」

 ねえ、どうしてかしら。
 わからないふりして微笑みながら尋ねる意地の悪い先輩に、俺は

「その答え、いりますか?」

 なんて風に返しながら、顔を傾けて先輩の頬にキスをした。

「卒業おめでとう、先輩。好きだよ」

 ようやく口に出来たその言葉に、先輩も嬉しそうにありがとうと答えてくれた。

 その顔があまりに綺麗で可愛かったから、俺はもう誰にも渡したくないなあって考える。考えて、最終的にはこの答えに落ち着く。先輩のこれからの好きも興味の対象も、俺だけでいいって。
 そのかわりに、俺のこの気持ち全部を捧げるから。








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