ふと、昔愛していた女を思い出し、洗い物をするくたびれた手が静止する。チョロチョロと刺すような冷水が皿から零れ落ちた。
 何故今更になってあの女が脳を掠めたのだろう。俺は水切りに皿を立て、次の皿を洗い流そうと手を伸ばす。
 もう十一年も前の話になる。あの頃はまだ若々しく、またどんな困難すらも耐えうると信じて疑わなかった。あれからもう十一年。みずみずしい肉体は枯れ始め、禿げるのは免れたものの所々に自己主張をし出した白髪は日に日にその本数を増している。
 あの頃は女も豊かな髪をたなびかせ愛くるしい笑顔を浮かべていた気がする。気がする、というのは、実はもうあまり細部まで思い出せず、もしかしたらその笑顔は私の脳内が産み出した願望や空想なのかもしれないからだ。本当はもっと不揃いな顔の造形をしていたかもしれないが、写真などは残していない為に詳細はわからない。
 しかし首筋のほくろだけはやけに鮮明で、滑らかな肌を撫でた時の膨らんだほくろの箇所の感触さえもまだ記憶に残っているのだから何故だか自分が気持ち悪くさえ思う。
 あの女もあの柔い肌が今では水を弾かないと嘆いているのだろうか。白髪を数え落胆しているのだろうか。会社の、もう歳の大分いったパートの女性が机に抜いた白髪を並べていた、あれは頂けなかったが。
 あの女もたまには俺のことを洗い物でもしながら思い出しているだろうか。あの、煙草臭い男、今頃何しているのかしらと思い出すだろうか。
 結局女という生き物については未だによくわからない。というよりも忘れてしまっただけなのだ。
 あの女と別れた後も何度か女と交際したが長くは続かなかった。こうして狭いアパートで税金を払い続け、一人寂しく洗い物などしているのがいい例だ。今はもう、彼女やそう呼べるに等しい女性の存在は幻想に過ぎない。見合いは二度ほどしたが、あまり記憶には残っていない。記憶にない位だからあまり良い女ではなかったのだろう。こんな腐った俺の相手をさせられた女だ、賞味期限切れ間近の売れ残りに決まってる。
 しかしあの女を、何故俺は今頃になって思い出したのだろう。想いが再び熱を帯びたと言うにはあまりにも今更過ぎる。それに何故別れたかも思い出せないのだから俺も都合のよすぎる男でしかない。
 あの女。黒髪の綺麗な、ほくろのある女。想い出を美化したい男そのものだな、と自嘲しながらシンクの泡をぬるい湯で洗い流す。

 あの女はきっと家庭の中に身を置いて、子供のひとりやふたりはいるのだろう。旦那も勿論いる筈だ。どんな話をするのだろう。俺のことを少しは話したりしたのだろうか。前の男よりもいい、なんて言っていたのかもしれない。
 どちみち会うことはない。
 顔だって未だおぼろ気だ。
 ただ、首筋のほくろの感触だけはやけに生々しい。

 あの女も俺のことをそんな風に一部分だけ覚えていたりするのだろうか。だとしたら、あの時の引き締まっていた肉体のこととかあの時の苦労知らぬ長細い指のかたちのこととかを覚えてくれていればいい。
 顔の造形や寝相の悪さなんて忘れてしまっても良いから。



2010年4月1日作成
自サイトより転載




第4回BLove小説・漫画コンテスト応募作品募集中!
テーマ「推しとの恋」
- ナノ -