…あ、花の香り。いつも俺の側にある香りだ。
目覚めを促されるようにゆっくりまぶたを開くと、俺の眼前に小夜の顔が迫っていた。
「あっ、朱里さん」
「うぉあっ!?」
小夜の声と俺の叫びが重なる。
「もうすぐお夕食の時間ですよ」
俺の動揺など意に介さないのか、小夜は顔を上げると、いつもどおりのん気そうな顔で俺に笑いかけてきた。
俺も上半身を起こすと、なんとか首だけ頷かせる。
「びっくりしちゃいました。朱里さんがベッドに大の字で倒れていらっしゃるから、てっきり気絶されたのかと」
後ろで手を組む格好で、小夜がほっとしたように笑って言う。
「でもよかったです。お昼寝されてただけだったのですね」
そう言われて初めて、俺は今まで自分が眠っていたことに気づいた。
窓のほうに目を移すと、外は完全に日が落ちて闇が佇んでいた。
「夜か…」
頭を無造作に掻く。
おかしな時間に寝たせいか、寝起き特有のまどろみからなかなか抜け出せない。頭がぼんやりとどこかを漂っているみたいだ。
「夕飯…食べなきゃな」
惰性でなんとか起き上がる。
そこに小夜から声がかかった。
「あっ、その前に」
せっかく立ち上がった俺を再度ベッドの端に腰掛けさせると、小夜は俺の真正面に立った。
俺からは小夜を見上げる形、小夜からは俺を見下ろす形になる。
「どうしたんだよ」
両手を後ろに回したまま、見下ろしてくる小夜。
緊張した面持ち。
気のせいか、頬が赤いように見えた。
「小夜?」
いつまで経っても動きを見せない小夜に、俺が痺れを切らしたときだった。
体の後ろに隠されていた小夜の両手が、前に伸ばされた。
その手のひらには、小さな桃色の箱がちょこんと乗っている。
「あ?」
「これ…」
「なに?」
「これ、朱里さんに…」
そう言って差し出す小夜の手から、俺は箱を受け取った。
白いリボンと桃色の紙の包装を解き、箱を開く。
甘く、香ばしい匂いが鼻に届いた。
「お前、これ…」
俺は目を瞬かせる。
箱の中に入っていたのは、いろんな形をしたクッキーだった。
「あっ、あの今日はバレンタインですからっ。朱里さんはチョコレートがお好きでないとお聞きしたので、クッキーなら大丈夫かなと思いましてっ…」
今俺の手の上に乗っているのは、ずっと待ち望んでいた小夜からのバレンタインプレゼント。
一気に気持ちが昂揚していくのが分かった。
俺は何も答えず、一番上に乗っているクッキーをつまみ上げる。
少し歪んではいるが、ハートの形だ。
次につまみ上げたのは、小さな人型のクッキーだった。
目や口もちゃんとついていて、コートらしきものまで羽織っている。
「あ、それはっ…朱里さんのクッキーなのです…。ほんとはもっと上手に作りたかったんですが…」
恥ずかしそうに、小夜が頬を赤く染めてはにかみをこぼす。
──なんて顔するんだ。
俺の中で何かが、ぷつりと音を立てて切れた気がした。
無防備に笑う小夜に腕を伸ばす。
そのまま背中に手を回すと、自分のほうへ一気に抱き寄せていた。
とにかく、力の限りに。
「…しゅ、朱里さ…」
頭上から、小夜の戸惑った声が聞こえた。
俺は小夜の腰に回した腕に、さらに力を込める。
顔が当たっている小夜の胸の柔らかさが、一層感じられて、体の芯が熱くなった。
耳に響く小夜の鼓動の音も速い。
「…やばい」
なんだか小夜の何もかも全てが、特別愛おしく思えた。
「めちゃくちゃ好きだ…」
ほんとうに、どうしようもないくらい。
自分でもどうすればいいか分からないほど、小夜に対する思いが募ってしまう。
大事で、愛しすぎて、こんなに強く抱き締めて言葉にしても、溢れ出る思いが止まらない。
俺はこの湧き上がってくる思いをどうすればいいんだろう。
制御できない自分の感情に戸惑っているときだった。
上で小夜が呟いた。
「…良かったです」
「え…?」
何が良かったんだろう。
俺が黙っていると、小夜が続けて言葉を紡いだ。
「そんなにお好きなんですね。クッキー」
「え」
「本当はケーキにしようか迷ったんですが、クッキーにして良かったです。こんなに喜んでもらえたんですもんねっ」
ちょっと待て…。
俺は恐る恐る小夜の顔を覗き込む。
とてつもなく嬉しそうな満面の笑顔。
「朱里さんはクッキーが”めちゃくちゃ好き”なんですねっ」
弾むように言い放つ小夜。
俺は言葉を失った。
…完全に勘違いだ。
こいつは俺の言った言葉の目的語を、完全に取り違えている。
俺は“クッキーが”めちゃくちゃ好きだと言ったのではない。
それに、大好きなクッキーをもらえた嬉しさから、小夜を抱き締めたのでもない。
「…あのな、小夜」
「はいっ」
俺に向けられるあまりに無邪気な笑みに、俺はそれ以上何も言えなくなってしまった。
…まあ、贅沢は言うまい。
今年はちゃんとバレンタインのプレゼントをもらえたんだ。
それだけで十分じゃないか。
無理やり自分に言い聞かせながら、俺はハート型のクッキーを一つ、口に運んだのだった。
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