小夜は朱里に対する申し訳なさを感じるのと同時に、言葉にはできない嬉しさを感じてもいた。
小夜の望みを全部叶えようと、朱里は確かにそう言った。
瞬間、それまで小夜の前に聳え立っていた圧倒的な壁は呆気なく消失した。
朱里は自分の前に境界線を引いたわけではなかったのだ。
むしろ、朱里の立つ円の中に、小夜を導いてくれようとしていた。
朱里の言葉が与えてくれた喜びに、小夜は胸が詰まる思いで口を開いた。
「今もこれからも、私が朱里さんに愛想尽かすなんてこと、絶対にありません…!朱里さんはいつだって、私の一番大好きな人なんですっ」
半ば叫ぶような小夜の言葉に、朱里の顔がぱっと赤みを帯びた。
「おまっ、そんな大声で…!分かった、分かったから!もう十分だよ、お前が怒ってないならそれでいいんだ。部屋の前で変なこと言って悪かったな」
動揺を隠しきれない朱里が胸前で手をかざして、逃げるように背を向ける。
「待って…行っちゃ嫌ですっ」
とっさに思いが口をついて出た。
今にでも駆け出しそうな朱里の足が、小夜の声にぴたりと止まる。
小夜は朱里の元に駆け寄ると、遠慮がちに服の裾を摘まんで朱里の背中に呟いた。
「…私の望むこと、なんでも叶えてくれるって言ったじゃないですか…」
頬をうっすら赤く染めたままの朱里が、後ろに立つ小夜を振り返った。
小夜はうつむいて足元に視線を落としたまま、頭に浮かぶただひとつの願いを口にする。
「…私の側にいてください」
返答はなかった。
小夜がそっと顔を上げると、先ほど以上に真っ赤な顔をした朱里が、小夜を見下ろしたまま固まっていた。
どうしてこういうときに限って、時間は早く過ぎてしまうのだろう。
暗い部屋のベッドの上、小夜は壁に身を預けるように、傍らの窓からのぞく夜空を一人見上げていた。
澄んだ空では星が瞬きを繰り返している。
小夜はそれを眺めながら、今日一日を頭に思い起こしていた。
今日は素敵な日だった。
願いを何でも叶えてくれるという朱里の言葉に嘘はなかった。
小夜が告げる願いを朱里は何でも聞き入れてくれた。
離れることなく、一緒に喋って、一緒に笑って。
手を繋ぎたいと望めば、街中にもかかわらず、すぐにその温かな手を差し出してくれた。
そのときの朱里の顔を思い出すと、小夜は今でも笑ってしまう。
今日という特別な日は、あと少しで終わってしまう。
けれど、今胸を満たしている幸せは、きっとこの先消えることはないだろう。
朱里はとても素敵な贈り物をくれた。
思い出。
これは何物にも変えられない一生の宝だ。
窓辺からベッドに視線を戻した小夜の顔が、そのときわずかに微笑みを浮かべた。
小夜の前には、毛布が広がっている。
そこに今、わずかな膨らみがあった。
窓から差す月明かりの下、毛布にくるまって眠っているのは、普段以上に幼さを感じさせる朱里だった。
口をかすかに開けて完全に熟睡している朱里の手は、よく見ると小夜のほうに伸びていた。
小夜は視線を自分の足元に向ける。
笑顔がさらに花開いて、月の光にその輪郭をぼかす。
朱里の手の先には、小夜の手があった。
先ほどからずっと、二人の手は重ねられたまま離れない。
「私の願い事、最後までちゃんと叶えてくれるんですね」
小夜は昼間、街を歩いているとき自分が何気なくこぼした言葉を思い返す。
“できることなら、ずっとこうしていたいです”
小夜と手を繋いで隣を歩く朱里は、そのとき苦笑を返した。
“それは大変な注文だな”
だけどそれからずっと、朱里の手は小夜の手から離れなかった。
朱里は一日中、小夜の手を引き続けた。
その小夜の願いは今もなお、聞き入れられている。
もうすぐ今日という日は終わりを迎える。
そうすれば小夜の願いも効力を失うだろう。
だが。
小夜には分かっていた。
明日は明日で、今日とは違う形の幸せが待っているだろうことが。
朱里と過ごす日々。
そのすべてが小夜の幸せに繋がる。
小夜は再び窓のほうに視線を移した。
空にぽっかり浮かんだ満月に、祈りを捧げる。
「どうか、明日も素敵な日になりますように…」
そのとき、朱里の手がかすかに小夜の手を握り締めたような気がした。
思わず朱里の顔を見る。
だが相変わらず穏やかな寝顔のままだ。
小夜は微笑んで、その手をそっと握り返した。
星の瞬きに合わせて、夜はゆっくりと移ろっていく。
朝焼けの眩い白闇をまぶたの裏に思い描きながら、小夜は今日という日に別れを告げて目を閉じたのだった。