「──小夜?」
突然、名を呼ばれた。
思わず小夜は、伸ばしていた手を背中の後ろに回していた。
口をつぐんで扉を見つめていると、声が続けた。
「小夜、いないのか?」
小夜は沈黙を守りとおす。
扉の向こう側、すぐ近くで誰かのため息が聞こえた。
「…駄目か。どこ行っちまったんだろ…」
不安の色を隠さない声がそう呟く。
普段ほとんど聞かない声音に引かれるように、小夜は再び扉に耳を押し当てていた。
この薄い扉を一枚隔てただけの向こう側で、声の主はどんな顔を浮かべているのだろう。
ぎし、と床を踏みしめる音が聞こえた。
おそらく声の主が立ち去ろうとしているのだ。
ここに小夜がいることも知らずに。
「…やっぱ嫌気が差したのかな、俺に…」
去り際、ぽつりと呟かれた声に、小夜は思わず顔を上げていた。
違う──!
反射的に扉に身を寄せる。
そのときわずかに膝が扉に当たって、小さな音を立てた。
普通なら聞き過ごしてしまうくらいかすかな音だ。
だが、扉の向こうで聞こえていた足音は、その瞬間止まった。
刹那の沈黙が、小夜と、そして扉の向こうにいる人物を包む。
その静寂を破ったのは、扉の奥の人物だった。
「…いるのか?」
激しく脈動する鼓動の音に息を詰め、小夜は身を固くした。
思わず「いません」と叫んでしまいそうなのを、必死に堪える。
「いるんだよな…?なあ小夜、さっきのことで話があるんだ」
こちらが返事をしないのも構わず、声の主、朱里は一人で話を続ける。
「話っていうか…その、俺がお前に謝りたいだけなんだけどさ」
謝る?
小夜は扉に目を向ける。
一体何を謝るというのだろう。
「俺さ、さっき嫌なこと言ったろ。関係ない、とか…さ。俺が無理言って外に誘ったのに、あれはなかったよな。ごめん」
一語一句を区切るように、朱里の声で謝罪の言葉が告げられる。
「お前が怒るのも当たり前だよな。俺、自分のことで頭の中いっぱいで、ろくにお前のこと見てなかったから」
どうして朱里が謝るのだろう。
悪いのはこっちなのに。
小夜は、そこに答えがあるとでも言うように、じっと扉に視線を送った。
だがどんなに見つめても、答えはもちろん朱里の姿も透けては見えない。
「…ほんとはさ」
朱里の声に小夜は耳を澄ませる。
「前もらったクッキーの礼のつもりで、遊びに誘ったつもりだったんだ。今日は二人で街を回って、美味いもんでも食って…。お前が望むこと全部、叶えてやろうと思って」
クッキーと聞いて、小夜はバレンタインのことを思い出した。
そういえば今日はホワイトデーなのだ。
つまり、バレンタインのお返しということなのだろう。
「…でも駄目だったな」
どこか自嘲的な笑いが扉の向こうから漏れた。
「あんまり馴れないことするもんじゃない。馬鹿みたいに緊張して、挙げ句にこの様だもんな。愛想尽かされても仕方ない」
少しだけ、声が遠くなった気がした。
小夜はどうしていいか分からず、扉に両手をつく。
「ほんと、今日は悪かった。言いたいのはそれだけだから…」
声が小さくなっていく。
朱里の足音が徐々に遠ざかるのが分かった。
自分から去っていく朱里の背中を思い浮かべた瞬間、小夜は考えるより早く扉を開け放っていた。
「待ってくださいっ」
廊下の少し先を行く朱里の背中が視界に入った。
小夜の声に、朱里が驚きも露わにこちらを振り返る。
「違うんです、怒ってなんてないんですっ」
小夜は開いたままの扉の側に立ち尽くしたまま、首を左右に振ってみせた。
「自分の図々しさに怒ってただけで、朱里さんは全然悪くないんですっ。悪いのは私なんですっ」
とにかく必死で誤解を解こうと、思いつく限りの言葉を口にする。
3/4