「──悪い。今日はもう寝る」
連日の大仕事で、体はくたくただった。
今夜は熱い風呂に浸かってそのままベッドに潜ろう。
そう決めて、朱里は宿に着くなり相棒の小夜に軽く手を上げ、部屋に続く廊下をよろよろと進む。
背後で小夜の「朱里さん」と呼ぶ声に振り向くのも億劫で、
「何かあれば明日また聞くから」
とだけ言い置いて、部屋の扉を閉めた。
シャワーでひりひりと痛む体に何とか鞭打ち寝床までたどり着くと、倒れ込むようにベッドの上に寝転がる。
冷たいシーツの感触が火照った体に気持ちいい。
深い眠りの海に沈んでいくように、朱里はそのまま意識を手放した。
何か夢を見ていた気がする。小夜が出てくる夢だ。
小夜はずっと何事かをこちらに語りかけていた。
だが小夜の声が小さいのか、俺の耳が遠いのか、何と言っているのかどうしても聞き取れない。
そのうち声も聞こえなくなって、気づいたら朝が来ていた。
まぶたを通して感じる陽の眩しさに、朱里は眉を寄せてうっすらと目を開いた。
今朝は妙に明るいなと思ったら、部屋のカーテンが全開のままになっていた。昨晩気づかずにそのまま眠ってしまったらしい。
冬には珍しい澄んだ水色の空が窓の向こうに広がっている。
太陽の位置はすっかり高い。完全に寝坊だ。
体を起こすと、全身の筋肉が軽く悲鳴を上げた。
痛みに顔を歪めながらなんとかベッドから抜け出す。
足も多少は痛むが歩くのに支障はなさそうだ。
ほっと息を吐き、身なりを整えて朱里は足早に部屋を出た。
昨夜置き去りにするように廊下に残してきた相棒のことが気になっていた。
すぐ隣に並んだ木の扉をノックする。
返事がないのでいないのかと立ち去りかけたとき、扉が中から開いた。
「いたのか」
「すみません、すぐに出られなくて」
扉の前に立つ小夜はまだ寝間着姿だ。
おそらく今の今まで眠っていたのだろう。
「いや、最近ずっときつかったし、お前も疲れてるだろ。今日はゆっくりしとけよ」
「いえ、すぐに着替えてきます。朱里さん、ちょっとの間待っててもらえませんか」
そのまま言うが早いか、小夜は駆けるように奥に消えていき、数分後朱里の前に再び姿を現した。
「なにそんなに急いでんだよ。今日は特に何の予定もないだろ」
寝ぐせで乱れたままの小夜の髪の毛を直してやりながら、朱里が笑う。
だがそれに反して小夜は首を大きく左右に振った。
「いいえっ、今日は大事な日なんです!」
なにやら拳まで握り締めて真摯な瞳で朱里を見つめてくる。
予想外の態度に朱里はたじろいで一歩後退った。
「大事な日って………あ」
小夜と目を合わせる。こくこく頷く小夜。
「朱里さんの今日一日を、私にくださいっ」
懇願するように胸の前で手を組む小夜の健気な姿を見れば、断ることは無論できない。
そもそも断る理由もない。
照れ隠しに頭を掻きつつ朱里は答えた。
「…分かった」
そういえば今年ももうそんな季節か。
小夜に続いて宿屋の階段を下りながら、朱里はぼんやりと思いに耽る。
バレンタインデー。
毎年この日は決まって、小夜が朱里に手作りの菓子をプレゼントしてくれるのだ。
毎年のことなので気を遣わなくてもいいと言ったこともあるのだが、それでは小夜の気が済まないらしい。
おそらく今年も何か計画してくれているのだろう。
前を行く小夜の後ろ頭に、なんだかこそばゆい気持ちになる。
今日は果たしてどんな一日になるのかと、密かに浮足立ちながら宿屋の扉を開いたときだった。
「あ」
「おっ」
今まさに宿の扉をくぐろうとしていた馴染みの顔と真正面から対峙した。
予期せぬ遭遇に、無言で扉を閉めて見なかったことにしようとするが。
閉じかけた扉の隙間から、すかさず大きな手がそれを阻止した。そのまま力任せにこじ開けられる。
ギギギという扉の音が、朱里には絶望の足音のように聞こえた。
抵抗虚しく朱里と小夜の前に姿を現した邪魔者、もとい師匠。
その後ろには影のようにジライも佇んでいた。
「どこの世界に師匠を閉め出す弟子がいるんだよ」
「こっちにも色々事情があるんだよ」
つっけんどんに返す朱里だが、内心少しだけ安堵する。
この二人だけならまだ不幸中の幸いだ。
このまま軽く挨拶を交わして、予定通り小夜と外に出ることもできる。
「師匠たちも今日はここに宿取るのかよ」
「ああ、まあな」