どこかで誰かがノックをする音が聞こえた気がした。
爽やかな朝だ。
小夜はまぶたをこすりながら身を起こす。
窓の外は気持ちのいい快晴。
部屋に降り注ぐ朝日がほんのりと暖かい。
いつの間にか冬は終わりを告げ、春の到来が始まっているのかもしれない。
ぼんやり外の景色を眺めていると、再びノックの音がした。
聞き違いではなかったらしい。
小夜はベッドから抜け出すと、慌てて部屋の扉を開いた。
「…よう」
扉の向こうに立っていたのは、相棒の朱里だった。
朱里は視線をすぐに逸らすと、無愛想に一言だけ告げた。
「今から出かけないか」
突然の申し出に、小夜は思わず目を丸くする。
「今からですか?」
小夜が戸惑うのも無理はない。まだ早朝だ。
起きたばかりで朝食すら摂っていない状態なのは、小夜の寝巻き姿を見れば朱里にも一目瞭然のはずだった。
だが朱里は「ああ。今から」と答えたきり、口を閉ざしてしまう。
なぜか小夜と視線を合わせようとしない。
普段とは明らかに違う朱里の様子に、小夜は内心戸惑いながらも小さく頷いてみせたのだった。
二人並んで朝の静かな街を歩く。
空気はしんと冷え切っていて肌寒い。
もう春もすぐそこまで来ているとはいえ、早朝の気温はずいぶん低いようだ。
(…手袋を持ってくればよかったです)
冷たくなった手先を合わせて息を吐きかけながら、小夜はちらりと隣に目を向けた。
横を歩く朱里は、先ほどからずっと押し黙ったままだ。
機嫌が悪いのか、いつもより表情が固い。
翡翠色の瞳は小夜を頑なに拒むように、前方を真っ直ぐ見据えていた。
(怒っていらっしゃるのでしょうか。原因はやっぱり、私…?)
ちらちらと視線を向ける小夜にも気付くことなく、朱里は歩み続ける。
一体どこに向かっているのだろうか。
気にはなるが、訊ける雰囲気でもない。
街の中心部を抜け、人家が極端に少なくなる外れまで来ても、朱里の足は一向に止まる気配がない。
このまま行くと、街を出てしまうことになる。
小夜はついに耐えかねて、足を止めた。
朱里は振り返って自分を見てくれるだろう。
そう考えた。
だが、朱里の背中は、そのまま何事もなかったように遠ざかっていく。
小夜を一人、置き去りにして。
朱里はどうしてしまったのだろう。
自分を置いてどこへ行こうとしているのか。
小夜は無性に悲しくなって、その背中に叫んだ。
「朱里さんっ」
朱里の頭がわずかに反応し、ようやく歩みが止まる。
振り返った朱里の顔には、驚きの色が浮かんでいた。
「お前、そんなとこで何してんだ」
今まさに、自分の隣に小夜がいないことに気付いた。そんな顔で、朱里は小夜を見返す。
小夜は顔をくしゃくしゃに歪めた。
「朱里さんこそ、どうして私を置いて行っちゃうんですか」
「えっ?いや、そんなつもりは」
「私に気に入らないところがあるなら、おっしゃってください!黙っていられたら、どうしていいか分かりませんっ…」
今にも泣き出してしまいそうな小夜の様子に、朱里は慌てて彼女の元へ駆けつける。
顔を覗き込み、心底困ったように朱里は眉尻を下げた。
「違うんだ、怒ってない。ただちょっと考え事してて…」
「考え事って何ですか…」
「それは…。お前には関係ないだろ」
焦ったように小夜から視線を逸らす朱里。
小夜はうつむいて唇を噛み締めた。
「…帰ります」
「え?」
朱里の顔を見ることなく背中を向けると、小夜はそのまま元来た道を歩き出した。
後ろで「おい!」と自分を呼び止める声がしたが、聞こえないふりでその場から立ち去った。