「…でも、もし…」

小さな唇が、俺のすぐ目前で言葉を形作る。
今さらながら、小夜との距離の近さを意識してしまった。

「…もし朱里さんが本当の吸血鬼だったとしたら…私、朱里さんになら、血を吸われてもかまわないです…」

小夜の瞳が潤んだように月の光を湛えて、俺を見つめてくる。
胸の奥深くがかすかに疼いた。

なぜ今こんなタイミングで、こいつはこんなことを言うんだろう。
なぜこんな目で俺を見てくるんだろう。

小夜の顔のすぐ側についた両手が固まって動かなくなる。

俺の肩からこぼれた漆黒のマントは、俺と小夜の体を包んで深い闇を生み出していた。

言葉が出てこない。口元にはいまだに小夜の指が添えられていて、そこが熱を持ったように熱かった。

俺が本当の吸血鬼であったなら、きっとここで迷わず小夜の首筋に顔を寄せることもできただろう。
その滑らかな肌の感触を唇で楽しんで、それからゆっくりと牙を沈めて。

そうできたなら、どんなにか楽だろう。何も考えず押し寄せてくるこの衝動に身を任せられたなら。

ふいに、窓に映った先ほどの自分の姿が頭に浮かんだ。

――じゃあお前は、一体何しにここまで来たんだよ?

そう言って俺を嘲るもう一人の自分。

――わざわざその格好を見せるためだけに来たんじゃないだろ?
女でもあるまいし。

同じ顔をした自分が鼻で笑う。

――なら何をしに来たのか、答えは一つしかないんじゃないのかよ。

その答えに辿り着いて、俺は口内に溜まった唾を飲み込んだ。

もう一人の自分を頑なに否定することはできなかった。

あれは俺の一部だ。
俺の心の中のどこかに、小夜を望む俺が確かに存在している。

そして今、俺の腕の中には無防備な小夜がいた。

体中を駆け巡る衝動を抑えきれる自信は、もう俺にはない。

そんなもの初めから、この部屋の前に立った瞬間からなかったのかもしれないけれど。


「…小夜」

自分でも驚くくらい掠れた声が出た。

俺の口に寄せられていた小夜の腕を掴み、床に張りつける。
手の平を重ね、指を絡めた。

「…小夜…」

もう一度求めるように名を呼ぶと、小夜がかすかに手を握り返してきた。

床に広がる小夜の髪を撫で、そのまま頬に触れる。少し冷たくなっている肌を温めるようにそっと。

「…朱里さん…」

切なげに目を細めて俺を呼ぶ小夜の顔を見た途端、一気に気持ちが昂揚するのが分かった。

もう止められない。

俺は自分を突き動かす衝動に従って、小夜の唇に顔を沈めていった。



がちっ、という音が響いたときは、それが一体なんなのか分からなかった。

思わず顔を離すと、小夜が可笑しそうに笑っていた。

「?なんだよ」

「歯が…」

「は?」

「朱里さんの歯がぶつかってきたので、つい」

なおもくすくすと笑う小夜。
俺はそこで、自分が牙を着けたままだということに気付いた。

「吸血鬼さんはキスするときも大変ですね」

小夜の言葉に急に気恥ずかしくなる。

もう一度牙を外して再チャレンジ!…というわけにもいかず、俺は口を押さえて上体を起こした。

「…悪かったな」

何となく謝ってしまう。
小夜は床に横たわったまま、きょとんと俺の顔を見上げていた。

「どうして謝られるんですか?」

「いや、だって…」

言いかけて止まる。
俺はまじまじと小夜の顔を見た。

月明かりに照らされた小夜の顔は、なんとも無邪気に俺に向けられていた。
先ほどまでの名残などまったく感じさせないほどに。

いや。
そもそも小夜は、自分が何をされようとしていたのかさえ理解していないのかもしれない。

「…お前さ、さっき俺がしようとしてたこと…」

訊こうとしてすぐ止めた。
自分がとてつもなく恥ずかしい質問をしようとしていることに気付いたからだ。

慌てて口をつぐんだ俺を、小夜は不思議そうに見上げている。

「朱里さんがしようとしてたこと?」

「いや、なんでもない。今のは忘れろ」

顔に血がのぼってくるのを感じて、俺は小夜から視線を逸らした。



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