朱里の視線を追って小夜も、チカの姿を捉えたようだった。
急にその顔に緊張がはしったのを朱里は見逃さなかった。
小夜は傷だらけの体を起こすと、よろめきながらどこかへ駆けていく。
その先にいるのは未だ倒れたままのアオだ。
小夜は半ば崩折れるようにアオの元にしゃがみ込むと、その小さな背中を揺さぶり始めた。
朱里も同じように側に駆け寄る。
「アオくん…アオくん、起きてくださいっ」
アオは右肩を地面につけるように横になって倒れていた。
その背中を小夜が懸命に揺らしているのだが、まったく反応がない。
朱里は小夜を制止すると、そっとアオの肩を引いて体を仰向けにした。
ごろり、とアオの正面が二人に向けられる。
「……っ」
朱里は思わず息を呑んでいた。
隣の小夜からは声もない。
アオは眠っているのではなかった。
小夜が肩を揺する必要はなかったのだ。
アオはもうとっくに目を開けている。
だが、アオは小夜や朱里を見てはいなかった。
その視線はぼんやりと虚空に注がれたまま動かない。
何かを告げようとしているかのようにぽっかりと開かれた小さな口の奥には、ただ深淵だけがのぞいていた。
小夜がいくら体を揺すろうと反応がなかったのも無理はない。
アオはすでに、息絶えていたのだから。
もう二度と何も見ることのない空色の瞳に、茜色の夕焼けを映しながら。
「あ、ああ…」
小夜の口から声とも呻きともつかない音が漏れた。
「ああああ…」
次第にその声は大きくなっていく。
「ああ…あああああああああああああああっ」
悲鳴にも似た叫びが、黄昏時の静かな通りにこだました。
子どもたちも小夜も全て置き去りにして朱里は一人走っていた。
頭が真っ白で、それでも足を止めることができない。
あの場にじっとしていることができなかった。
どうして。どうして。どうして。
なぜ自分はこんなにも必死に足を動かしているのだろう。
頭の中に反響するように繰り返される問いかけへの答えを探しているのか、それともただあの場から逃げ出したかっただけなのか。
自分でもよく分からない。
耳の奥ではさっきからずっと小夜の叫び声が響いていた。
まるで自分を責める糾弾のように――。
息が切れるのも構わず走っていると、いつの間にか朱里は中心街のほうに足を踏み入れてしまったようだった。
あんなことがあったというのに、通りを行く人々はいつもと何ら変わりない。
楽しげな喋り声。
「今日の夕飯は何にしようかしら」そんな声も聞こえてくる。
気付けば朱里は通りの真ん中に、一人呆然と立ち尽くしていた。
すれ違う人の幸せそうな顔。楽しそうな笑い声。
自分の鼓膜には今もなお悲痛な叫びが響いているというのに、この世界はなんて穏やかな空気に満ちているのだろう。
朱里にとっては今見ている物全てが虚像のようだった。
完全な偽りの贋物。
犠牲にしてきた物全てを綺麗な嘘で塗り潰した、まやかしの街。
一見美しく整った理想的な街の裏側が、そのときはっきりと朱里の目には見えた。
周囲の空気におぞましさを感じて一歩後退した朱里の耳に、一段と大きな声が届いたのはそのときだった。
「――ほんと他愛もなかったな」
朱里に向けて放たれた言葉ではない。
朱里は声の主を探して首を周囲に巡らせた。
「何もあれだけの人数で行くほどのことはなかったよな。アンナ様もなかなか用心深いというか…」
アンナ、という名に朱里は聞き覚えがあった。
それは領主の妻の名前。
そして、チカの母親だった女の名前だ。
「後はあのガキ共がどこかに消えてくれりゃ万々歳なんだがな」
どっと男たちの笑い声が周囲の喧騒に混じって聞こえた。
朱里は声がするほう、通りに面する酒場の中へと目を凝らした。
昼間であるにもかかわらず薄暗い酒場の中では、幾つかの丸い机を囲うように男たちが酒を酌み交わしているようだった。
その中に見慣れた男の姿を見つけて、朱里は迷わずそちらへ駆け出していった。