息を吐く朱里の左手に小夜の手が触れたのは、ようやくチカが押し黙ったときだった。
小夜の小さな手は、そのまま朱里の小指を強く握った。
無言のままうな垂れる小夜がどんな顔をしているのか、朱里には見えない。
それでもその思いは握られた手から確かに伝わってきた。
「――仕方ねえよな」
腹をくくる、という表現が果たして正しいのか、朱里の放った一言は思いがけずあっさりしたものだった。
重苦しい空気を吹き消すかのごとく、朱里は先を続ける。
「元々、こんなに長居するつもりじゃなかったんだしな。チカ、いろいろ迷惑かけて悪かった」
返事はなかったが、戸惑う気配はした。
「それとアオ…じゃなかった、蒼」
本当の名を呼ばれ、アオは「うん…」と小さく返事をする。
「お前にはほんと世話になった。ここまで連れてきてくれたこと、感謝してる。ありがとな」
朱里の言葉に、アオは小さな拳をぎゅうっと握ってさっきと同じように「うん…」と返事をする。
それでも明らかにそれは、泣くのを我慢している声だった。
そして、同様に涙を押し殺しているのは朱里の隣に立つ小夜。
小夜の握る手にはますます力がこもっていた。
「わっ、私もっ…」
震える声で小夜は前の子どもたちに顔を向ける。
「私もっ…皆さんに出会えたこと、とても感謝していますっ…。とても楽しい思い出をたくさん、たくさんもらいました。ありがとうございますっ…」
精一杯の感謝の気持ちを込めて、小夜は暗闇の中にもかかわらず額が膝につきそうなほど頭を下げた。
必死に朱里の小指を握るその手は、小さく震えを刻んでいた。
「さて、じゃあ行くか、小夜」
あえていつもの調子で言う朱里に、殊勝にも小夜が大きな声で返事をする。
「はいっ」
二人の旅人が呆気なく家を去った。
別れは本当に簡単なものだった。
部屋の中には先ほどから同じ状態で、チカとアオが立ち尽くしている。
ただアオは、我慢していた涙が次から次へとこぼれてきて、ひたすら手で左目をごしごしこすっていた。
「…っく、いっ、行っちゃった…。うっく、うえぇ」
泣きじゃくるアオを宥めるでもなく、チカは呆然と二人の去った扉を見つめていた。
自分でもよく分からない消失感が彼の胸には満ちていた。
なんなの、これ…。
それは時間が経つごとに、つまり二人が遠ざかっていく度に強くなる。
焦りにも似たその感情に、チカは戸惑った。
自分はここにこのまま立っていていいの?
頭の中の何かが、問いかけてくる。
二人はどんどん離れていくぞ。
もう二度と会えないことになるんだぞ。
チカが目を固く閉じたとき、ふいにアオの言った言葉が脳裏をよぎった。
”チカはどうしたいの?”
まるで今耳にしたかのような、はっきり澄んだ声。
今のチカにはすぐにその答えが導き出せた。
目を開くと、部屋の中は変わらず闇に包まれている。
それでもチカには見えた。
今自分が進むべき道が。
星空と廃屋に囲まれた一本道を、二人はどこに向かうともなく歩いていた。
行き先など決めていない。
ただ足を動かしている、そんな感じの歩き方だ。
「ずずぅ…」
隣で鼻をすする小夜に、朱里は困ったような笑いを向けた。
「泣くなって。別れなんていつか必ず来ることだろ」
自分に言い聞かせる意味も込めて、朱里は空を仰ぎ見た。
降り注いできそうなほどの星空。
だが、いくら見渡してみても月は見つからない。
星のわずかな光も届かない外界は、完全な闇に覆われている。
唯一側にいる小夜の存在を感じられるのは、いまだ握られた小指だけだった。
「…な、泣いてなんかいません…。ただ、ちょっとだけ鼻水が…」
そう言ってさらに鼻をすする小夜。
暗闇をいいことにした言い訳だろうが、その声は明らかに涙声である。
朱里はわざとそれに気付かないふりをして、再び空を見上げた。
(…寒いな…)
夜の訪れた町の中は、ひどく冷える。
風はおさまっていたが、それでも朱里の体は何かを失くした喪失感に寒気を覚えていた。
公園から戻った際のものとは違う。
それは空虚さを伴った寒さだった。