「…朱里さん?」
顔をのぞき込んでくる小夜の愛らしい瞳は、今や誘惑の種にしか見えない。
(…と、とりあえず落ち着け俺…。離れりゃいいんだよ、離れりゃ。そうすりゃ何の問題もないっ…)
脈打つ己の心臓にはなるべく気を留めないようにして、朱里はゆっくりベッドについた手を持ち上げた。
相当慎重な動作だったが、朱里自身は真剣そのものである。
今小夜を見たら終わりだ。
いいか、絶対に見るなよ。
自分に強く言い聞かせながら、もう一方の手も持ち上げようとしたときだった。
「――いいところ邪魔しちゃって悪いんだけど」
唐突に第三者の声が響いた。
朱里は文字どおり跳び上がる。
その震動で再びスプリングが軋んで激しい音を立てたが、朱里の耳には到底入っていないだろう。
「ちっちが…そうじゃねえって!!」
床に飛び離れ必死に首と手を振る朱里の顔は、夕日を浴びているわけでもないのに真っ赤である。
だが、声の主は大したことでもないというように、平静な表情のまま二人の元へ近づいてきた。
「あれ?どうなさったんですか、チカくん」
二人の前に現れたのは、先ほど一人颯爽と家の中に消えたチカであった。
てっきり地下に潜ったものだと思っていたのだが、どうやら二人に用があってわざわざ一階に戻ってきたらしい。
チカは小夜を一瞥すると、いまだ動揺治まりきらずといった風の朱里に顔を向けた。
「…ちょっと二人に用があってね」
神妙に言う声は、意を決した色を帯びていた。
朱里は動揺した自分を落ち着けるよう、大きく息をついて返事をする。
「何だよ、用って」
じっとチカを見返した朱里にならって、小夜もベッドから下り朱里の隣に並んだ。
互いに見つめ合ったまま、しばしの沈黙が三人の間に降りた。
チカは朱里と小夜の顔をうかがい、朱里も同じようにチカの考えをその表情から読み取ろうと目を離さない。
小夜はそんな二人に漂う空気の正体を図りかね、戸惑っているようだ。
最初に重い沈黙を破ったのは、チカだった。
「…教えてほしいんだ。どういうつもりでここにいるのか。てっきり、今日の朝には二人ともいなくなってると思ってた。でも、そうじゃなかった。一体何を考えて今もまだここにいるの。なぜ僕らにかまうの」
心の奥底まで探ろうとするチカの真っ直ぐな視線に、朱里はわずかに身じろいだ。
改めて理由を問われると、なんと答えていいのかすぐには浮かばない。
なぜここにいるのか。
(…起きたら小夜があいつらと遊んでて、そのまま流れで畑まで行って…。特に理由なんてないよな)
そう答えようとチカを見る。
が、その真剣な瞳の前にはとても、理由なんてないとは言い出せない。
(…どうするか…。完璧に警戒されてるんだよな、これって…)
朱里が返事に思い悩んでいると、隣の小夜がさらりと言い放った。
「簡単ですよ。皆さんともっと一緒にいたいと思ったからここにいるんです。いろいろ遊んだり喋ったり、チカくんとももっとお話したいですし」
小夜の力侮れず。
朱里が返事に労しているのに、小夜はいとも簡単に答えを出しにっこり笑っている。
前に立つチカも目をまんまるにさせて、小夜を見つめていた。
こんな言葉が返ってくるとは思いもしなかったに違いない。
そして同様に、隣の朱里も唖然と小夜の横顔を見ていた。
「い、一緒にいたいってお前…」
なぜかチカより先に言葉を挟む朱里。
小夜は驚きの顔を浮かべる朱里を不思議そうに見上げて、
「朱里さんは、皆さんと一緒にいたくないですか?」
「は?えっ、いや。別にそういうわけじゃ…。畑仕事も楽しかったし…」
思わぬ問いにしどろもどろで答える朱里に、いっそうの笑顔を浮かべて小夜は言った。
「そうですよねっ。皆さんといると、すごく楽しいですっ」
そのとき、ぽつりとチカが声を漏らした。
「…楽しい?」
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