宿の前まで来ると、後ろの小夜も幾分か安心したようだ。
小さく息をつく音が耳元で聞こえた。
「部屋戻ったら、手当てしてやるから」
「はい…ありがとうございます」
小夜の笑顔と、やっと町の人間がいないところに戻れたという安心感が朱里の頬を緩ませる。
「やっとお前も下ろせるな。あー腕しびれた」
ふざけるように言って笑うと、すぐ横にある小夜の顔が思いがけずかあっ、と赤く染まった。
予想外の変化にびっくりして朱里が小夜の顔を見つめる。
「な、なんだ?」
「……も、申し訳ないです…。もっと空気みたいになれるよう努力します…」
言ってさらに顔を赤らめる小夜。
その頬は今や、熟したリンゴのように真っ赤に色づいている。
「はぁ?空気?」
わけが分からず聞き返すが、恥ずかしそうに朱里の肩に顔を埋めた小夜は返事をする気配なし。
しばらく朱里が?マークを浮かべていると、押し黙っていた小夜が急に後ろで暴れ出した。
「やっぱり、お、下ります…下りますからっ!」
足や手をじたばた動かして、なんとか朱里の背中から離れようとする小夜。
「ちょ、バカ暴れんなって!いてっ、さりげに叩いてるぞおい!!」
「お、重いのもう嫌ですっ…!!下りますっ!下ろしてください!!朱里さんのばかっ!!」
なんで俺が馬鹿呼ばわれされんだよ、と頭の中でツッコミつつ、朱里は暴れる小夜の体を落としてしまわぬよう背負い直した。
そこではたと朱里が動きを止める。
……"重い?"
「……お前まさか…」
半泣き状態にまで陥っている小夜の顔を、ゆっくり振り返った。
「…体重気にしてんの?」
「……っ!!」
核心を突かれた小夜が、まるで落雷でも受けたかのように衝撃的な表情を浮かべる。
そしてみるみる泣き出してしまいそうに目尻を下げた。
「……だ、だから下ろして下さいと言ったのに…」
うわずった声は、本当に今にも泣いてしまいそうだ。
「あー悪ぃ悪ぃ。しかしお前って、変なとこで女だよな」
人前で平気で脱いだりするくせに、体重は妙に気にするのか。
その小夜の不思議な乙女心に、朱里はついつい笑ってしまう。
「うぅー…」
抵抗するのを諦め、大人しくなった小夜を背負って、朱里はそのまま宿へ入っていったのだった。
二人の姿を認めたとたん、それまで客の一人と話をしていた宿主がさっと顔色を変えたのに、朱里は気付いた。
なんだ、と首をかしげつつ、こちらに向かってくる宿主の男を見つめる。
男は入口前に立つ朱里と後ろに背負われた小夜を見て、わずかに顔を歪めた。
「…悪いがあんたら」
言って二人の視線を避けるように顔を背け、少しためらった後言葉を続ける。
「…出てってくれないか。ここにあんたらを泊まらせるわけにはいかないんだよ」
きょとんと目を丸くする朱里と小夜に向かって男は慌てたように、
「と、とにかくすぐに出ていってくれ!」
言い捨てるように言って、逃げるように宿の奥に引き返していく。
「ちょ、待ってくれよ!なんだよそれ!?」
朱里が慌てて後を追おうとしたが、もうすでに男の姿は奥に消えており。
「おい、待てよ!怪我してる奴がいるんだ!!休ませたいんだよ!!」
朱里の大声に、周囲で談笑していた客が一斉に目を向けた。
しかしそれにも構わず朱里は叫んだ。
「頼むからこいつだけは泊めてやってくれ!!」
だが、相手からの返事はない。
一瞬場が静寂に包まれた後、再び客が話し出す声が二人を包んだ。
「…どういう、ことだよ」
うまく回らない頭で朱里が呟いて宿の中を見回すが、誰ももうこちらを見ようともしない。
「朱里さん…」
不安そうな小夜に返す言葉もなく、朱里は楽しそうに笑う宿の客たちをぼんやりと見つめているしかなかった。