昔住んでいた町…。
頭の中に、以前朱里の師匠が話してくれた昔話がよみがえる。
小さな朱里を蹴ったり殴ったりしていた町の大人たちと、それに黙って耐えていた幼い朱里。
そして。
雨の降る公園で吐かれた残酷な、とても残酷な言葉の数々。
思い出した瞬間、小夜はとっさに自分の口を両手で押さえていた。
それに驚いた朱里が小夜の顔をのぞき込む。
「どうした?気分でも悪いのか?」
自分を気遣う朱里の言葉に、小夜は首を大きく振った。それでも手は口に当てられたままだ。
自分はなんて馬鹿なのだろう。何も考えずに喋りすぎていた。
この町は朱里にとってあまりいい思い出のない場所だったのだ。
いや、もしかしたら辛い思い出しかないのかもしれない。
それなのに自分のわがままで、ここまで朱里を連れてきてしまった。
あげく男たちに絡まれるという、辛い思いをまたさせてしまったのだ。
「おい、ほんと大丈夫かよ?吐きそうなのか?」
自分のせいで嫌な目に遭ったというのに、朱里は怒ることもなく心配すらしてくれる。
その気持ちが痛くて、小夜は口から離した両手をそっと朱里の手に重ねた。
「…ごめんなさい…」
心の底から出た謝罪の言葉は、口にすると思ったよりも小さく空気に溶けていった。
後に何と続ければいいのか小夜が戸惑っていると、すぐ横で朱里が息をつく音が聞こえた。
「…別にお前のせいじゃねぇよ」
吐き出されるように呟かれた言葉は、小夜を気遣う色を帯びている。
「俺自身がこの町の宝を手に入れたいと思ったから来たんだ。誰も見たことのない遺跡、すっげえ興味そそられるからな。それに、いくら俺が昔ここで嫌な目に遭ったからって、今はもう関係ねえだろ。俺ももう大人なんだしさ。昔みたいに黙ってやられたりしねえよ。だから気にすんな」
自分に向けられた朱里の笑顔に、小夜は小さくうなずいて返事をした。
「はい…」
「だーから、そんな顔すんなって。笑えよ、ほらほら」
沈んだ顔でうつむいた小夜の両頬をむにっと掴んで、朱里が笑ってみせる。
頬を持ち上げられた小夜も妙におかしな笑い顔になった。
「あたたっ、痛いでひゅよ朱里ひゃん」
容赦なく上に下に引っ張るものだから、頬がジンジン痺れている。
それでも朱里はからかうように小夜の顔で遊んでいる。
たまらず小夜も朱里の両頬を指で摘まんで引っ張った。
「いでっ、おまへ引っ張りしゅぎ…」
「しかへしでひゅぅう」
どちらかが離すまで決して離すまじと互いに互いの頬を引っ張り合うが、結局頬の痺れにほぼ同時に手を離した。
二人の頬は真っ赤に染まっている。
「び、ビリビリします…」
涙目の小夜が頬を押さえながら呟く横では、同じように朱里が頬を手でさすっている。
「いってぇ。お前少しは容赦しろよな、なんか頬の感覚がねぇんだけど俺」
見ると朱里の頬は小夜以上に真っ赤だ。しかも微妙に腫れているようにも見える。
「あははっ、ほんとにまっかっかですね」
目の大きさだけでなく、頬の赤さのせいでさらに幼く見える朱里に、小夜はついつい笑みをこぼしてしまった。
こうして見るとまるで小さな男の子のようだ。
可愛らしいという言葉が、今の朱里にはぴったり当てはまる。
「お前なぁー…」
何笑ってんだ、と口をとんがらせた朱里だが、あまりに小夜が楽しそうに笑っているので文句も言えず、とりあえず小夜の頭に軽くチョップをお見舞いしておいた。
暗くて細長い闇の中、一人の幼い少年がじっと闇に同化するように息を潜めてしゃがみ込んでいる。
長い前髪に隠されたその顔はアザと埃にまみれていて、血の跡まで見てとれた。
着ているものは、元々は普通の服だったのだろうが、今ではボロきれをまとっているようにしか見えない。
ひどく滑稽な格好をした少年だ。
少年は膝を腕で抱えて座り込んだまま、その後も動こうとはしなかった。
ただ闇に溶けていくだけ。
まぶた越しに朝陽の眩しさを感じてうっすら目を開けると、柔らかい光に照らされた天井が視界に入った。
首を右方に向けると、窓の向こうの空が白けているのが見える。
「朝か…」
目覚めたばかりのだるい体を起こし、朱里は窓の外に広がる町の景色を見つめた。
一日の始まりを告げる白く淡い光に町は包まれている。
さっきまではあんな暗闇にいたのに、と朱里はわずかに目を細めた。