「…朱里さん」
後ろから小夜の控えめな声が聞こえて、朱里は肩をかすかに強張らせた。
次に続く言葉を待ちながら、自分の耳に響く鼓動の音が大きくなっていくのが分かる。
うるさいくらいの心音に、朱里が目を固く閉じたときだった。
何か温かいものが、ふわりと朱里の背中に触れた。
びっくりして顔を上げるが、窓ガラスに映った自分に隠れて小夜の姿は見えない。
「…大丈夫ですよ」
思ったよりもすぐ近くでささやくような声が響いた。
子どもをあやす母親のように優しい慈悲に満ちた声音が、朱里の耳朶を痺れさせる。
「大丈夫です…怖いことなんて何もありません。大丈夫」
後ろから繰り返し紡がれるその言葉は、朱里の縮みきった心の芯をじかに包み込んでくれるように温かく心地いい。
緊張で極度に張っていた気持ちが、徐々にほぐれていくのが分かった。
――大丈夫だよ。
不思議な言葉だ。
そう言われると、本当に大丈夫なんだと思えてくる。
だけど心が落ち着いてくるのは、この言葉のおかげだけじゃない。
朱里は目を閉じて、自分の背中に触れる温もりの正体を探した。
きっとこれは、あいつの手のひらだ。
ついさっきまで引いていた、小さくて柔らかい手の感触。
そこから伝わる温もりが、自分を安心させていくのが分かる。
大丈夫だよ、という小夜の思いが、じんわりとそれを通して広がってくるのだ。
なんだか今まで後ろを見るのを怖がっていた自分が馬鹿みたいだ。
朱里は窓に映った、自分に隠れて見えない小夜を思って小さく笑った。
温かい手のひらから伝わってくるのは、軽蔑や嫌悪なんかじゃなかったんだ。
勝手に俺が勘違いしてただけのこと。
いつだって後ろにいるのは――
ゆっくり振り返った先にいたのは、いつものように柔らかく微笑んだ小夜の姿だった。
何もかも受け入れてくれるような温かな瞳がこっちに向けられている。
「もう、大丈夫だから」
言って小夜の頭をくしゃっと撫でてやった。
この言葉は嘘じゃない。
大丈夫だ。
こいつがいてくれるなら、何があっても大丈夫。
本気でそう思えた。
6/117