後ろを振り返ったアンナの顔には、小さな微笑が浮かんでいた。
諦め、悲哀、孤独。
すべての陰の感情がない交ぜになった顔。
アンナの口元がゆっくりと動く。
「…わがままが過ぎてしまったわね…」
ほつれた髪の毛の先が風に揺れる。
「…怖がらせてしまってごめんなさい。でも本当はこんなに長居するつもりじゃなかったの。ほんのちょっと昔に戻れたら、それで良かった。すぐ出ていくつもりだった」
アンナの視線が子どもたちの間を順番に流れていく。
「でも、側にいればいるほど離れたくなくなってしまったの。もっと近くで、色んな顔が見たいって思ってしまった。そんな権利なんてないことは分かりきってるのにね。私、母親に戻りたかった」
アンナの視線が最後にチカの顔に留められる。
チカは何かに耐えるように目を細めてアンナの視線を受け止めていた。
アンナが再び笑みをこぼす。
「でももう、それもおしまい」
子どもたちに背を向けると、アンナははっきりとした口調で言い放った。
「私は領主の妻に戻る」
チカがかすかに息を呑むのが分かった。
アンナはくるりと振り返ると、子どもたちを見渡してにこりと笑う。
堂々とした、女領主たる微笑みだった。
「もうあなたたちには会うこともないでしょう。約束どおりこれからは手出しもしないし、町の者にも一切関わらせない。あなたたちを干渉するものはもう何もないわ。好きに生きていけばいい」
「だけど、僕はまだ遺跡の場所を…」
慌てて口を挟むチカに、アンナは告げる。
「必要ないわ。遺跡がどこにあるのかは大体分かったから。地道に地下を探せば済むことよ」
そのままアンナはチカから視線を外すと、来た道を一人歩いていく。
じっとアンナの背中を見つめていたチカが、体の横に流した拳を握り締め、ついに口を開いた。
「僕はあなたのことが許せない!」
チカの叫びに、アンナの足が止まる。
チカが続ける。
「あなたのしてきたこと、きっと僕は忘れたくても忘れられない」
自分の胸に拳を押し当てて、チカは苦渋の色を浮かべて視線を落とす。
「だけど…」
呟いて上げた視線の先には、立ち止まったアンナの背中があった。
チカはわずかに逡巡するように口を開閉した後、はっきりとアンナに向かって言い放った。
「たとえどんな酷いことをされても、僕があなたの息子であることは変わりないんだ。あなたが僕の母親だってことは、絶対に変わらない。僕の母さんは、世界でたった一人、あなただけなんだもの」
今にも泣いてしまいそうなのを必死に堪えるように、チカは唇を強く噛んで、遠くに佇むアンナの背中を見つめる。
それまで微動だにしなかったアンナの体が、そのときゆっくりとこちらを振り返った。
淡い陽射しが触れて輪郭が光に溶けたアンナの顔は、困ったように笑っていた。
「…ほら、あんまり唇を噛むと血が出ちゃうわよ。そろそろその癖は直さなきゃ」
垣間見えた母としての素顔。
だがすぐに、その顔は背中の向こうに隠された。
アンナは再び一人、歩き出す。
もう決して彼女が後ろを振り返ることはないだろう。
森の緑にアンナの姿は溶け込んでいき、ついには見えなくなる。
母の背中を追うことさえ叶わないチカの小さな背中は、物悲しそうにアンナの消えた方角を見つめ続けているのだった。
別れは意外に呆気ないものだった。
子どもたちとは森の広場で別れた。
もう少しアオの側にいたいのだと、チカは言っていた。
だがその顔は、どこか違う思いに囚われているようにも見えた。
今朱里は小夜と並んで、町の出口に続く道を歩いている。
「…本当にこれでよかったんでしょうか」
先ほどからずっと何か考え込んでいるようだった小夜が、地面に視線を落としたままぽつりと漏らした。
「何が」
「チカくんとアンナさんのことです…。お二人とも、きっと気持ちは同じはずなのに…」
自分のことのように小夜は辛そうな顔をする。
朱里はあえてのんびりと頭の後ろで腕を組んで答えてやった。
「あれで良かったんじゃねえの。お前が悩むことじゃねえよ」
「…だけど」
「あいつらには時間が必要なんだ。チカや他の子どもたちにとっては、心の傷を癒す時間が。アンナにとっては立場を気にせず孤児たちを受け入れる度胸をつける時間が」
「時間…」
反芻するように呟く小夜に、朱里は笑って答える。
「そうだよ、時間。大抵のことはこいつが解決してくれるもんだ。だからあいつらは大丈夫」
それに、あの子どもたちは強い。
朱里や小夜が考えているよりもずっとしたたかだ。