チカが目覚めてから初めての夕食は、場にそぐわない緊迫した空気に満ちていた。
小夜はスープを口に運びながら、そわそわと周囲に視線を泳がせる。
子どもたちやチカが無言で食事を摂る中、アンナだけが忙しく動き続ける姿が見えた。
「みんな、スープのおかわりはまだあるからね。足りなかったら言ってね」
今夜の夕食はすべて、アンナが用意したものだった。
と言っても、材料は全部調理場にあるものだったが。
アンナが笑顔で声をかけても、子どもたちからの返答はない。
ひたすらアンナ一人が喋り続けている状態だ。
小夜はちらりと隣の朱里に目をやった。
朱里は小夜と目を合うと、わずかばかり肩をすくめるだけでそれ以上の反応は返してくれない。
小夜は再び、子どもたちに懸命に話しかけるアンナの姿を見守るしかなかった。
もう主のいない部屋。
それが小夜と朱里に与えられた寝室だった。
ほんの数日前までここで昔話を聞かせてあげていたのが嘘のようだ。
あれから一体何が変わったというのだろう。
主がいなくなったというのに部屋には何の変化もない。
ただ主の姿だけがぽっかり抜け落ちている。
それが小夜には悲しくもあり、虚しくもあった。
床に敷いた毛布に、二人で身を横たえる。
狭い室内だ。おのずと小夜は朱里に身を寄せる格好となった。
枕元に置かれた燭台の炎を消そうと腕を伸ばしていると、朱里が口を開いた。
「そろそろ潮時だな」
小夜は、炎に照らされた朱里の顔を見返す。
朱里は黙ってどこか一点を見つめている。
その瞳がゆらゆらと炎を受けて燃えているように見えた。
「いつ…ですか?」
「明日の朝」
朱里の答えに、小夜はただ静かに頷く。
朱里がちらりと小夜の顔に視線を留めた。
「いいのか?」
「…はい。いつかは必ず来ることですから」
答えて、小夜は今度こそ燭台の灯りを消す。
部屋に色濃い闇が落ちた。
小夜が寝るための体勢を整えようとしたときだった。
すぐ側で朱里の声が響いた。
「…お前は残ってもいいんだぞ」
低い、闇に溶けてしまいそうなほどかすかな声。
小夜は朱里の顔があるはずの方向を見る。
もう一度、付け加えるように声が発せられた。
「…別れが嫌なら、このままここにいても…」
闇に隠れて朱里の表情は見えない。
暗闇の中、朱里はどんな顔でこの言葉を告げたのだろう。
小夜は探るように手を伸ばした。
指先が温もりに触れる。
朱里の頬のようだ。
小夜はその頬に触れたまま口を開いた。
「…私の家はどこですか?」
突然の小夜の質問に、朱里が戸惑う気配が感じられた。
「私が戻る場所は、どこですか…?」
小夜は祈るように質問を繰り返す。
朱里は忘れてしまったのだろうか。
朱里が与えてくれた小夜の家の在処を。
しばらくして、朱里の頬に添えた小夜の手に、温かい感触が重ねられた。
「…ごめん」
ささやかれる朱里の声。
いつしか小夜の体は、すっぽりと朱里の腕に包み込まれていた。
深い闇の中、小夜は目を閉じる。
すぐ側にある朱里の胸元から、かすかな心音が聞こえた。
「…私の帰る場所はここですよね…。ここに帰ってきて…いいんですよね」
小夜の背中を支える大きな腕に、そのときわずかに力が込められた気がした。