![](http://static.nanos.jp/upload/r/rita12/mtr/0/0/20200710192112.jpeg)
終 章
故 郷
懐かしい香りがした、気がした。
目を開くと視界いっぱいに、不安げなナギの顔があった。
「…ナギ…?」
チカはぼんやりとナギの顔を見返す。
ナギは眠っていないのか、目の下にうっすらと隈をつくったまま、チカの顔をのぞき込んでいた。
「チカ、気分は?どこも痛くない?」
チカが頷いてみせると、ナギはほっとしたように顔を緩めて笑顔をこぼす。
「よかった…。心配してたんだよ、なかなか起きないから」
「…僕、ずっと寝てたの…?」
「うん。もう丸2日」
「そんなに…」
言葉を失うチカにナギは微笑んでみせると、
「ちょっと待ってて。みんな、呼んでくるから」
慌ただしく部屋を出ていってしまった。
チカはベッドに横たわったまま、首だけ巡らせて室内を見回す。
「2日…」
自分ではそんなに眠っていた感覚はなかった。
そもそもいつから眠っていたのかも分からない。記憶があやふやになってしまっているようだ。
頭の一部がまだ眠りから目覚めていない感じだった。
「…確か、領主の屋敷に向かって…」
首をゆっくりと左に向ける。
ベッドに添えられた小机の上に、カップが一つ置かれているのが見えた。
誰かが温かいミルクでも用意してくれたのだろうか。
チカは身を起こすと、カップを手に取った。
中に入っているのはミルクではなかった。
「これ…」
かすかな香りが鼻をくすぐる。
つい最近も嗅いだ、懐かしい香り。
ひとくち口に含むと、優しい甘味が口中に広がった。
渇いた喉を潤す香り豊かな紅茶の風味。
曖昧だったチカの記憶の糸が、少しずつ解けていく。
カップの中で揺れる琥珀色の紅茶の水面には、自分を見つめる自身の顔が映っていた。
頬や額にはガーゼがあてられている。
「…そっか。あの炎の中で、僕…」
脳裏に真っ赤な炎の世界が蘇ったとき、部屋の扉が音を立てて開かれた。
「チカ──!」
声とともに飛び込んできたのは、見覚えのある女性。
だが女性の姿は、チカが記憶しているものとはかけ離れていた。
常に清潔な白い上下のスーツはすっかり黒い汚れにまみれ、綺麗にまとめていたブロンドの髪も今では無造作に下ろされている。
化粧もすっかり剥げ落ちてしまっていた。
思わずその姿を凝視するチカの元に駆け寄ってくると、女性──アンナはベッド側に膝をつき、チカの顔をのぞき込んできた。
「チカ、気分はどう?どこか痛いところはない?声は?声はちゃんと出せる?」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、チカはなんとか「うん…」と返してみせる。
アンナがほっと息をついた。
「…そう。よかったわ。ほんとによかった…」
ふいにアンナの口からこぼれた安堵の笑み。
なぜかチカは懐かしさを覚える。
そういえば昔は、こんなふうに笑ってたっけ。
飾り気もなんにもなくて、髪の毛もいつも下ろしたまんま。
だけど、自分に向けてくれる笑顔はとても優しくて、とても綺麗で。
「…おかあさん…」
昔の母が戻ってきたみたいだった。
アンナが微笑んで「ん?」と聞き返してくる。
目の前にある温もりに手を伸ばしたくてたまらなかったけれど、チカはそれをせずに慌てて目を逸らした。
駄目だ。
甘えちゃいけない。
「チカ?」
心配そうなアンナの声が聞こえたが、チカは視線を逸らし続ける。
僕らはこの人のせいで、大事な仲間を失った。
その仲間のためにも、この人に気を許すなんてしちゃいけない。
僕はこれからずっと、この人を憎み続けて生きていかないといけないんだ。
もう昔に戻ることなどできない。
この人は僕の家族でもなければ、母親でもない。
この町を仕切る領主の妻。
ただそれだけだ。
チカは必死にそう言い聞かせた。