「適当でいいからな、適当で」

いつになく真剣な顔で朱里の両手の平の傷を消毒している小夜に、朱里は苦笑しつつそう告げた。


朱里の手の傷を見たときの小夜は、ひどく驚いた後で、悲しげに目元を細めていた。

今もまるで自分が負った怪我のように、痛みに耐える表情を浮かべている。

「あのさ、何もお前がそんな痛そうな顔しなくても」

「朱里さんが痛いでしょう…?だったら同じです」

慎重な動作で、小夜がそっと手の平にこびりついた血の塊を拭っていく。

改めて見ると、皮膚の損傷は相当なものだった。
しばらくはまともに物を握ることもできないかもしれない。



ぼんやり小夜の手当てを眺めている朱里の頭に、ふと記憶が蘇った。

「そういえば、約束…」

小夜が顔を上げる。
似たような光景を目の前にしているせいだろうか。今朝交わした小夜との約束が、鮮明に頭に浮かび上がった。

脳裏で真剣な顔をした小夜が告げる。

“この手を傷つけないって、約束してください”


自分でも意識しないうちに、口を開いていた。

「…俺さ、今日町であいつらに会ったんだ」

ぽつりと言葉がこぼれる。
突然の話題の変化に小夜は口を挟むこともなく、じっと朱里の顔を見つめていた。

朱里は言葉に迷いながら続ける。

「あいつら、やっぱり殴りかかってきたよ。俺が何かしたからじゃない。俺の存在そのものが気に食わないんだってさ」

軽く笑い飛ばしてやろうと思ったのに、上手く笑えなかった。

「…でさ、俺は…逃げた。当然あいつらは追いかけてきたけど、うまく撒けたと思った。でも結局、捕まった。すげえ殴られたし、蹴られた。最後なんか水溜まりに浸かってずぶ濡れでさ」

自分でも何を言っているのかよく分からなかった。
口がどんどん生み出す言葉に、頭がついていかない。そんな感じだ。

こんなことを小夜に告げて何になるというのだろう。
単に自分の情けない姿を暴露しているようにしか思えない。

だが、どんなに格好悪くても、朱里には伝えておきたいことがあった。


「…約束、覚えてるか?この手は傷つけないって。こんな傷だらけの手、前にして信じろってのも難しいかもしれないけど…でも、信じてほしい。俺は殴ってないから。これだけは誓って言える」

真正面から小夜の顔を見据えて、朱里はそう告げた。
わずかに小夜の瞳が揺らいだように見えた。

「…守ってくださったんですか…?私との約束…」

小さな口元が動く。

問いに答える前に、小夜の手が朱里の頬に伸びてきた。

「…いっぱい、いっぱい痛かったですよね…。ごめんなさい…」

辛そうに自分を見上げてくる小夜に、朱里は軽く笑ってみせた。

「あのさ、お前が言ってたこと、俺分かったような気がするんだ。あそこで俺が殴り返してたら、きっとあのまま無意味な殴り合いが続いてた。暴力は繋がっていく。小夜の言うとおりだ。殴ったっていいことなんか一つもない」

だからそんな泣きそうな顔するなよ。
そう言ってやりたかった。

言葉の代わりに頭をぽんと叩いてやろうかとも思ったが、あいにく手が使えない。
仕方なく口を開いた。

「約束守ったんだぞ。喜べよ。ほら、笑えって」

自分でも呆れるくらい不器用な言い草だ。
催促するような言葉に、小夜は戸惑っているようだった。

「でも…」

「いいから!お前が笑わなきゃ、俺が約束守った意味がないだろ!」

思わず声を荒げてしまった後で後悔する。
小夜は驚いて固まってしまっていた。

「ああ、くそっ…!なんでこうなるんだ。お前に笑ってほしいだけなのに…」

思わず声に出して呟いていた。
手が使えれば、頭をガリガリと掻きむしりたい気分だった。

どうして俺はこうも口下手なんだろう。

そうして自己嫌悪に陥りかけているときだった。
小夜がぽつりと呟いた。


「…いいんですか…?」

「え?」

「…喜んでも、いいんですか…?朱里さんがこんなにいっぱい傷ついてるのに…」

澄んだ瞳が不安を湛えてじっと見つめてくる。

朱里は少し考えてから、口を開いた。

「ああ。お前が笑ってくれると、それが一番嬉しい」

自分なりに、精一杯の言葉を尽くしたつもりだった。

ちゃんと伝わっただろうか?

うかがうように様子を見ていると、それまで曇っていた小夜の表情が少しずつ和らいでいくのが分かった。

小夜は愛らしい微笑みを口元に宿して、

「私も…約束を守っていただけてすごく嬉しいです」

今度こそ笑顔を見せてくれた。


それを見た朱里はわざとらしく咳をついた後で、

「それでいいんだよ、それで」

あさっての方向に視線を逸らしつつ、必死に頷きを返す。

おそらく自分の頬が上気しているのには、気付いていないに違いなかった。



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