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第5章
汚れなき存在
もうこれで完璧にあいつとの接点は切れてしまった。
暗い建物と建物の隙間の壁にずるずるともたれかかりながら、朱里は漆黒の空を見上げた。
嫌でも思い出してしまう。あの男と話すときの小夜の嬉しそうな笑顔。
それを見た瞬間、自分は彼女にはまったく必要ないのだと確信した。
「はは、馬っ鹿みてぇ。女々しく会いに行ったりなんかしてさ…。あいつは俺のことなんてとっくに忘れてるっつーのに」
あまりのみじめさに笑いが出る。
壁に背を預けて座り込んだまま、朱里は膝の間に顔を埋めてそのまま押し黙った。
もう動く気にもなれない。
しばらくはここでじっとしていよう。
朝が来たら街を出て、そのままどこか遠くへ行くのだ。
もう二度とあいつに会うことがないように…。
朱里はゆっくりとまぶたを閉じた。
朝の訪れとともにアールは小夜の眠る部屋に入り、起きる気配のない寝顔を見下ろした。
しばらくはこのままであるだろうことを、彼は知っている。
「…ごめんね小夜様。だけど僕が君を幸せにしてあげるためには必要な物なんだよ」
そう言ってベッド脇の小机に置いてあった空のカップを持ち上げる。
しっかり中身が入ってないことを確認して、再びアールは小夜に視線をやった。
「もう少しだから…我慢してね?」
悲しそうに目を細めた後、彼は静かに部屋を出ていく。
残された小夜には朝日が降り注ぎ、その無垢な寝顔を照らしていた。
顔に当たる陽のまぶしさに目を開けると、すっかり街は朝の景色に彩られていた。
狭い隙間から見える大通りには出店が立ち並び、活気溢れる声も聞こえる。
「げ…寝すぎたな」
本当なら夜明けと同時に出発するつもりだったのに、とため息をついて朱里はのろのろと立ち上がった。
そのまま大通りへ出ようとしたところで、見知った男が向かいの建物から出てくるのが見えた。
今小夜の側にいる男だ。
慌てて壁に体をくっつけ身を隠す。
男はこちらには気づきもせず、そのまま朱里の視界から去っていった。
「ふぅ」
安堵の息を吐いて、朱里ははっと我に返る。
「いやいや待てよ自分。なんであいつから隠れる必要がある」
己の情けない姿を自分でツッコんで再びため息。
「もういいや、なんだって。とにかく出発しよ…」
大通りに出たところで、自然と目は先ほど男が出てきた建物を見上げた。
「…薬屋?」
進みかけた足を止めて、朱里は目を細めた。
(風邪薬か…?)
そういえば昨夜忍び込んだときに見た小夜は、調子がよくなさそうだったと思い出す。
あの男に支えられないと体を起こすのも億劫なように見えた。
(風邪…長引いちまってるのかな…)
無意識に宿のあるほうを振り返った。
だがもう戻ることはできない。
自分は進むしかないのだ。
だけど。
「…とりあえず薬屋だけは寄ってこう」
女々しすぎる自分に心の中で悪態をつきながらも、朱里の足は小夜とつながりのある男の軌跡をたどって、店の中へ入っていくのだった。
重たいまぶたをゆっくり持ち上げると、白い天井が見えた。
体はだるくて動かせない。なんだか昨夜よりもずっと調子が悪いみたいだ。
なんとか首だけを動かして、小夜は外へ続く扉を見つめた。
そういえばあの日も、今と同じように具合が悪くて横になっていたと思い出す。
その日はすごく寒くて私はずっと震えが止まらなかった。
冷たい地下牢の中で意識を失って、気づいたときには暖かい部屋のふかふかなベッドの上に寝かされていた。
後で聞いた話によると、お父様が部屋を与えるよう取り計らってくれたらしい。
お母様は「放っておけばいい」の一点張りだったようだから…。
ひどい熱で朦朧としている幼い私のところに、部屋の扉が開いた。
そちらに顔だけ向けるとものすごく冷やかな顔でこちらに向かってくるお母様の姿がぼんやりと見えた。
ああ、どうしよう。
またお母様を怒らせてしまった。
私がこんなに弱い子だから…。
ダメな子だから…。
どうしよう、どうしよう。