アールがベッド側に寄ると、小夜が寝息をたてて眠っていた。
起こすのは忍びないけれど、とためらいながら肩を優しく揺する。
「小夜様、ホットミルクを入れたから」
わずかに持ち上げられたまぶたが何度か瞬きをし、瞳が手元のカップからこちらの顔へと移動した。
「…アール…?」
まだ覚醒しきらない小夜の半身を起こしてやりながら、アールは微笑んでみせる。
「ごめんね、無理に起こしちゃって。でも栄養を摂ったほうがいいと思ったから。はい、飲むでしょう?温かいよ」
差し出されたカップを受け取り、小夜はぼんやりと月の光を受けて揺れるミルクの水面を見た。
「…夢を、見てました…」
ぽつりと呟く彼女の横顔をのぞきこんでアールが尋ねる。
「夢?」
それにこくりと頷いて、小夜はさらに言葉を紡いだ。
「昔と同じ花畑に、今の私とアールがいるんです。私は幼い頃のように、アールが集めてくれたいろんな色の花で冠を作って、それをアールの頭に乗せてあげていて……アールは『綺麗だね』ってにっこり笑ってくれるんです。…本当に、昔のまま…」
小夜の横顔が昔を懐かしんで、ふわりと笑みをこぼした。
アールも微笑んでベッドの側に膝をつく。
「素敵な夢だね」
「はい…。だけどこれはやっぱり…夢なんでしょうか」
カップに浮かぶ月を見つめながら小夜が漏らした。
花畑で笑い合う自分たち。
昔とまったく同じ光景。
だけど、私たちは昔と同じじゃない。
そのとき、カップを持つ手に温かいものが触れた。
「夢じゃないよ」
はっきり言い切って、アールがさらにぎゅっと小夜の手を包みこむ。
こちらを見つめる表情は普段よりずっと真剣で、大人の男性を意識させた。
「アール…?」
「その夢はきっと現実になる。いや、現実にしてみせる。小夜様は僕が必ず幸せにしてあげるから」
言ってアールは優しく小夜の頭を撫で、その額に軽く口付けた。
離れたときにはいつものように柔らかな微笑みが浮かんでいた。
「さ、それを飲んだらまた眠るといいよ。まだ体もだるいんでしょう?」
「あ、はい…」
部屋を出ていくアールの後ろ姿を見送ってから、小夜は再びカップに目を移した。
…本当にまた自分は笑えるのだろうか。
こんな気持ちのままで…。
(…あれも、夢…?)
そっと指で触れた唇には、まだほのかな温もりが残っているようだった。
見なければよかった。
聞かなければよかった。
小夜が寝入ってからしばらくして、音もなく部屋の隅のクローゼットが開いた。
そこから一つの人影が出てくる。
影はベッド脇の窓に歩み寄りそっと開けると、そこで初めて後ろを振り返った。
しばしの間の後ぽつりと一言残して、窓の向こう、漆黒の闇に姿を消す。
…さよなら…。
眠る少女に向けて発された別れの言葉は誰の耳にも届かず、ただ虚空に溶けるのみ。