荷物を肩に提げ部屋を出る。
外に出るとすっかり日も沈み、星が瞬き始めていた。
昼の雨は夕方には止んでおり、雨のにおいだけが今はその痕跡を残しているばかりだ。
朱里はすぐに町の外門へと続く道を歩き出した。
歩きながら考えるのはやはり小夜のことだ。
男から泊まっている宿だけは聞き出したが、現在もまだそこにいるとは限らない。もう昼のうちに発っているかもしれなかった。
それに朱里は会いに行こうとは思わなかった。
願望と現実は別物だ。
小夜のためを思えば、自分は黙って去るしかないのだということは分かっている。
しかし一つだけ気になることがあった。
──婚約者。
あの男は確かにそう言った。自分は小夜の婚約者であると。
その言葉で思い浮かぶのは紫音だが、彼はもう既にこの世にいない。戦争に巻き込まれて死んでしまったのだ。
ならばあの男は一体誰だ?
紫音そっくりの顔を持ち、今小夜のすぐ側にいる男…。
一瞬朱里は背中に寒気を覚えた。
まさか紫音の幽霊でもあるまいし。気を直すよう首を振る。
しかしそれでも頭に浮かんだ違和感は拭えなかった。
自分は何か大きな取り違えをしているのではないか。
本当にこのまま去っていいのか。
朱里はそのとき初めて後ろを振り返った。
宿の二階を見上げると、一室だけ明かりの点いていない部屋があった。
自分の周りには人はいない。これなら難なく忍び込めるはずだ。
考えてみればおかしなことだった。
高熱を出して寝込んでいる人間が、わざわざそんなときに宿を抜け出すだろうか。しかも何の荷物も持たず寝巻き一枚で。
明らかに不自然だった。
やはり小夜に会わなくてはいけない。
会って理由を聞く。その結果別れることになっても意志は変わらない。
朱里は宿の壁のレンガを掴んで昇り始めた。
暗い部屋の窓に手をかけると何の抵抗もなくすっと開いた。道端の人に気づかれないよう素早く部屋の中に侵入する。
入るとすぐ目の前にベッドがあった。
「あ…」
小夜だった。
かすかに寝息を立てて眠っている。
それ以外に人の姿は見当たらない。どうやら例の男は別に部屋をとっているようだ。
これで少しはゆっくりできるかな。
朱里はベッドの側に膝をついて眠る小夜の顔を見た。
何日ぶりだろう。もう具合はいいのだろうか。
そっと額に手を当てると、熱は下がっているようだった。
ほっと安堵するのと同時に、妙な淋しさが胸に浮かんだ。
(あいつに看病してもらったんだろな。ウサギのリンゴとか作ってもらったりしてさ)
俺よりよほど器用そうな奴だったもんな、と頭の中で毒づいて小夜を見た。
ここ何日も探していた顔が今目の前にある。なんともあどけない表情で自分のすぐ側に。
手を伸ばすと頬に触れることもできた。
柔らかく温かい感触。
本当に自分はこの少女と離れなければいけないのだろうか。
ここにいると全てが嘘に思えてくる。
目が覚めればまた二人、一緒に旅を続けられるのではないか、と思ってしまう。
朱里は手をゆっくり頬から口元へと移動させた。
小さな蕾のような唇に指をあて、そこに顔を近づける。
まだ一度しか触れたことのない小夜の唇。
そしてもう二度と触れることのない場所…。
まるでそれ自体が神聖な儀式のように、朱里は時間をかけてその唇に自分の口を重ねた。
触れた途端に溶けてしまいそうな感触を口元に記憶させようと、長く口づける。
──離れたくない。
頭に浮かぶのは、ひたすらその願いばかりだ。
俺はこいつと離れたくない。もっと一緒にいたい。
なのに──
「…お前はそうじゃ、ないんだよな…」
顔を上げて朱里が呟いたとき、背後の扉の向こうで靴音が響いた。
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