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第4章
小さな灯火も消えて
昼をすぎてもなかなか雨足は弱まらない。
先ほどから窓を打つ音がやたらと響いている。
灰色に沈んだ街を見下ろしながら、アールは温めたミルクコーヒーをベッド脇の小さな机の上に置いた。
ベッドには小夜が横になっていたが、その瞳がうっすらと開いていることから眠っていないのが分かる。
「小夜様、飲むかい?」
返事はなかったが、それを気にした風もなく側の椅子に腰掛けて、アールは再び窓に目をやった。
「なかなか雨、止まないね」
やはり応えはない。代わりに、小夜のまぶたが辛そうに閉じられた。
先ほどのことを思い出しているのだろうか。
小夜の顔を見つめながらアールは記憶を呼び起こす。
部屋を飛び出した小夜を追って外へ出ると、泥だまりの中に彼女が倒れ込んでいた。
その小さな体を、冷たい雨が容赦なく叩きつけている。
急いで走り寄ろうとしたアールは、しかしそれ以上近づけなくなってしまった。
滝のような雨音の轟きの中であるのに、小夜の声は確かに聞こえてきた。
泣き叫んでいるような、救いを求めているような声。
そして何よりも、聞いている者に対して絶望を与えるような声だった。
発している本人には、それ以上の絶望が渦巻いているのだろう。
そんな小夜の姿を見て、アールは一歩も動けなくなってしまったのだ。
雨は自身の体も濡らしていった。
まぶたを固く閉じた小夜の顔から目を離して、膝に置いた自分の両手に顔を向けた。
雨の中で感じた胸のしこりに、今は気づきたくなかった。
「ねえ、小夜様」
眠っていないことは承知していたので、アールは返事がなくともそのまま言葉を続けた。
「もうここの宿も飽きてきたでしょう。もっと気色の綺麗なところに行ってみようか?体が元気になったら二人で、緑のたくさんある場所に家を造って、昔みたいに花畑の中で笑い合ってさ。きっと毎日を楽しく過ごせる。辛いことや悲しいことなんて何一つなく幸せに生きていけるよ」
気づくと小夜が目を開けて天井を見ていた。
アールは思いつくかぎり、楽しい暮らしの像を小夜に聞かせようとした。
ただ小夜に笑ってほしい一心だった。
笑ってくれさえすれば、胸に生まれたしこりを消し去ることができる。
小夜を絶望の淵に追い立ててしまった自分の罪を帳消しにできる。
アールはそう信じた。
光に満ち満ちた二人の花畑。
確かにあそこで過ごした時間は何よりの至福だった。
もう一度あの頃に戻りたい。ううん、戻れるかもしれない。
だって隣には昔と同じように笑顔のアールがいる。
きっと、戻れる。
徐々に雨は弱まっているようだった。
小夜は天井からアールの顔へと視線を移した。
アールは少し躊躇ったように目を泳がせた後、小夜の視線を受け止めた。
「アール…」
ぽつりと呟く。
昔そうしたように、小夜は前の青年ににっこりと微笑んでみせた。
きっと、戻れる――。
「…戻る家がない、か…」
荷物の整理をしつつ、朱里は小さく呟いた。
部屋の中は明かりは点いているものの、何となく陰気臭い。
朱里はすぐに町を出発するつもりだった。
もうここには用がない。むしろあるのは辛い記憶だけだ。
知らなかった、小夜がこの不安定ではあるが自由気ままな生活を嫌っているなんて。
自分と共に旅をしていくことに堪えていたなんて思いもしなかった。
自分はいつもそうだ。
小夜の笑っている顔に安心して、その内面に全然気づいてやれてない。
これじゃ出て行っちまうのも当たり前か。愛想尽かされたんだよな俺。
悲しくもあり笑いたくもなった。
もうどうしようもない。